女心と秋の空、ってどうなんだろね。
 確か去年の秋だかに僕がそう言ったとき、当時付き合っていた彼女は笑ったものだ。男心と秋の空、というのが本来の形だと。総合して言えば、人の心は男女ともに変わりやすいってことね。彼女は笑った。でもそのとき僕は、少なくとも、僕の心は変わったりしないと思ってた。むしろころころと愛らしく変化していく彼女の表情こそが、秋の空だと思った。
 別に悪い意味じゃない。僕は秋が一番好きだった。
 秋の気候は、寒すぎるのも暑すぎるのも苦手な僕にとっては快適なものだったし、なにより秋の花粉には僕の身体は無反応だ。一番心穏やかに、一番季節感というものを大事にしようと思える季節だ。雨がざぁざぁ降っていたかと思ったら、次の日には晴れていたりと、そんなどこかハチャメチャぶりがどこか懐かしく。食べ物もおいしいし、自然をこよなく愛する僕の目を楽しませてもくれる。
 なにより、秋の空は高い。
 夜の空も好きだけど、やっぱり昼の空がいい。置き去りにした夏がうっかり戻ってきてしまったような、そんな空が好きだ。そんな空をぼんやり眺めながら、お茶をしているのも好きだ。
 去年は僕の安いアパートの狭いベランダに椅子を並べて彼女と二人、のんびりしていたものだったけれど、今年はといえば僕はひとりだ。更に言えば、場所も幾度となく彼女と過ごしたベランダじゃない。あたりには自然しかないようなド田舎の、駅員なんて一人もいない小さな駅に僕はいる。
 小さな駅の小さなベンチに僕はぼんやり座って、いつ来るとも分からない電車を待ち続けてる。
 ホームの端から端まで走ったとしたら、勢いあまって飛び降りてしまいそうだ。もっとも、飛び降りても電車がくるわけでもない。僕の知ってるレールは殺伐としたものだが、ここのレールは緑に覆われてる。屋根らしきものといえば、どこかのバス停にありそうなものよりも貧相だ。ベンチがあるのが奇跡に思えてくる。需要なんてないんだろうな、とひとりごちる。僕という需要はどうかと問われれば、こうまで清々しく電車がこないとそれも疑わしくなってくる。当然周りには商店や民家らしきものも、というより建物自体がない。まるで僕は前時代とか前文明の遺産と一緒に取り残されてしまったみたいだ。
 でもこれはこれで、僕には気持ちがいい。
 二、三分の遅延でイラついてたことがあったなんて、まるで夢のようだ。その隣で涼しげに笑っていた彼女のことも。
 空は青い。雲は白い。人は赤い。……赤い?
 ふと視界の端に映った色を目で追いかけると、どうやら赤いワンピースを着た少女であるようだ。いや、もしかしたらもっと年上かもしれないけど。顔は遠すぎて分からないけど、まぎれもなく人だ。脚は黒く見えるから、レギンスを穿いてるのかもしれない。そういえば前にスパッツと言ったら彼女に怒られたっけ。靴はこれまた赤。髪はたぶん黒。
 やはり少女だと分かるくらいに距離が近付くと、彼女も僕に気付いたらしい。なんの遠慮もなしに僕のことを見上げた。あまりに真っ直ぐ見つめられるものだから、僕は気恥ずかしくなったあと、なんだか逆にまじまじと見つめ返してやれという気分になった。
「なにしてるの?」
 少女が口火を切った。わずかに首が傾げられ、耳の辺りで切り揃えられた黒髪がさらりと揺れた。
「待ってる」
「なにを」
「電車かな、たぶん」
「たぶん?」
「うんそう、たぶん」
 ふぅんと彼女は小さく頷くと、また別方向に首を傾げた。「でもたぶん、電車はこないよ」
「えっ、そうなの」
「うん。だって私、もうずっと線路沿いに歩いてるけど、遭遇したのはおじさんが初めてよ」
「たったの一度も?」
 少女は首を振る。またさらさらと髪が揺れた。俗に言うおかっぱ頭ってやつかな。見るのは初めてだった。彼女はちょうどレールの上にバランスよく立っていて、ホームにいる僕をじっと見つめていた。僕がどう反応するのか、じっと観察しているようだった。
 僕は足を組みなおして、ついでに腕も組んだ。鼻から息を吐く。「うんまぁ、仕方ないよね」
「仕方ないの?」
「来ないものは仕方ないよね。僕じゃ電車は動かせないし」
「じゃあ歩く?」
「歩いたらどれくらい?」
「さぁ」
「君はどこまで歩いていくの?」
「さぁ」
「じゃあ歩こうかな」
 足が絡まって立ち上がれないなんて面白いことになるわけもなく、僕がすっと立ち上がると、少女はどうぞとでも言いたげにぴょんとレールを飛び移った。十センチにも満たない鉄の上を、彼女はひょこひょこ器用に歩く。まるで重力なんて敵じゃないといったふうに。僕はぎこちなくそれに続く。両手を広げて、飛べるわけでもないのに。
 さっきからカンカンと音がするなと思ったら、彼女の靴は低いながらもヒールだったらしい。よくあんな靴でこんな不安定なところを歩けるものだなと、僕は感心する。ノースリーブで寒くないのかなとも思ったけど、僕は何も言わない。彼女が何も言わないから。
 でもやっぱり僕は沈黙に耐え切れず、話しかけた。僕の意思は薄弱なのだ。「電車が来たら、怒られないかな」
「どうして怒られるの?」
「線路に入っちゃいけません、ってよく言うじゃない」
「おじさんは心配性?」
「違うよ」
「違うんだ?」
「厳密に言うと、僕はまだ三十路手前だからおじさんじゃない」
 ふぅんと彼女はまた頷くと、くるりとその場で回ってみせた。本当に羽が生えてるみたいだ。
 彼女の視線を受けて、僕は言い直した。「でも違わないかも」
「違わないんだ?」
「僕はよく石橋を叩いて渡るタイプって言われるんだ。叩いて確かめて、さぁ渡ろうと思っても叩きすぎて壊れたんじゃないかってまた叩いて、それで結局」
「結局?」
「誰かに手を引っ張られる」
「渡れたの」
「そのときはね」
 そう、そのときは渡れた。渡れないときももちろんあった。渡れない回数が増えたのはいつからだっけ。去年はたぶん渡れていたはずだ。
 それから少女はまたくるりと回って、また歩き出した。彼女の口から次々と質問が繰り出される。僕はそれを受け流してみたり真っ直ぐぶつかってみたり、ぶっすりと串刺になってしまったりした。その合間に、どっちの方角に向かってるんだろうとか、結構僕も歩くの上手くなったじゃないかなんて思ったりした。足は動き続けてる。
 少女の歩くリズムに合わせて赤い裾がひらひら揺れて、まるで金魚みたいだ。なんていったっけ、あの共食いする綺麗な熱帯魚。
「手、つなぐ?」
 彼女が唐突にそう言い出した。そんなに僕はあぶなっかしく見えるのかな。まぁ確かに、さっきから何度もレールを踏み外してるけど。
 小さな手。
 僕は中肉中背で、手足もそんなに大きくないけども、僕の手にすっぽりと収まってしまうくらいには彼女の手は小さいってことだ。僕と歩調を合わせて歩くものだから、彼女の足取りもちょっと怪しい。怪しくなってしまう。そしてきっと、優しく強く、石橋を渡らせてくれた彼女の足取りも、きっと僕に合わせようとしたから。僕を愛するというあたたかさが、彼女を疲れさせたんだ。
「どこへ行くんだい」僕は問う。「どこに行きたいんだい」
「歩いてみたいの。なんにもないような線路が、どこに繋がってるのか知りたいの。なんのためにあるのか知りたいの」
「意味なんてないかもしれないよ」
 無意味なことはないと、大好きだった彼女が言った。でも僕は、意味の間を泳ぐことに疲れてしまったんだ。弱虫だから。見えない全部から逃げ出したくなったんだ。彼女からも。そして困ったことに、弱い僕が嫌いじゃないんだ。だから中途半端に逃げて、こんなところにいる。見えもしない線路の先に挑戦する赤いワンピースの彼女は、なんて勇敢なんだろう。僕よりも、僕よりも。
「でも、会ったよ」
 そういって彼女は繋がった手を見て、また少し首を傾げた。僕もまじまじと手を見つめてみる。
 そうだね。確かに、そうだね。
 来るかも分からない電車を待ってるかどうかすら自分でも分かってなかった僕と、どこまで続いてるか分からない線路をひたすら進む彼女と。出会ってこうして、一緒に歩いてる。手まで繋いじゃって。どこの青春だよ、って言うのは簡単だけど、空は気持ちいいくらい晴れてるし。後ろからも前からも電車はやってくる気配はなくて、赤いワンピースはひらひらと重力を無視してる。
 だからきっと、僕の頬を伝う滴がそこに加わったって、もはや出来すぎってことはないだろう。


「君と僕の間」
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