ただ一人、がらんとした部屋にいる。
 この感覚は深く馴染みのあるものだった。少なくとも藤堂貴康においては。この町に引っ越してくる前は、広い家にただ一人でいる時間のが圧倒的に多かった。
 だがこの半年、かつてないほど近くに人の温もりがあった。玄関をくぐれば「おかえり」と声がかかったし、自分が言うこともあった。ご飯を一緒に食べる人がいた。眠るまでの時間を居間でだらだらと過ごした。近くに誰かがいて、けれども何を気負うでもなくテレビを眺め、いくつかぽつぽつと話をする。あるいはその日あったことなどを楽しそうに語る声にじっと耳を傾ける。
 幸せの縮図。
 いつかの自分が求め、得られなかったゆえに忘れ去ったもの。
 まさか今更得ることができるとは思ってなかった。
 そしてまた遠ざかるとは。
 藤堂はソファに体を投げ出した。だらしなく寝そべり、この町にくるより寂しくなった心を見つめていた。なんの物音もしない。天気予報だけ確認してテレビは消してしまった。藤堂は目を閉じる。時を告げる針の音と、吐息と心臓の音だけが聞こえる。そこには自分以外の生き物が発するものはなかった。
 まるで自分一人だと思った。世界の中に、一人だけ。
 その静寂を、単調な電子音が遮った。携帯が着信を告げている。相手はと見れば陽介だった。
「はい」
「あ、藤堂? すげーさみぃな今日!」
 答える声は弾んでいた。妙に反響している。
「……まさか外にいるのか?」
 いつもの時より背後の雑音が多い気がして問えば、案の定だった。おー、と嬉しそうな声がする。
「そうそう、外! マジ凍える!」
「早く部屋に入れよ」
「だよなー」
 何がおかしいのか、陽介は笑った。寒さで頭がおかしくなったか。
「このままじゃ凍死するよな、俺制服だし。つーわけで開けて?」
「は?」
「いやー手ぶらもなんだし、鍋の材料と酒買ったはいいんだけど…あ、これ内緒な? 重くて手がちぎれそー」
 藤堂は駆けた。
 勢いにまかせて扉をあけ、そしてその先に首をすぼめて立つ同級生の姿を見る。
 陽介は音に振り返って、笑った。
「よっ、相棒!」
 嬉しげにジュネスの袋で塞がった手を掲げてみせる。鼻はトナカイよろしく真っ赤だ。
 呆れ返って言葉もない男に向けて、陽介は笑っている。
「……阿呆だな」
 そして藤堂も笑った。



 すっかり体の冷えきった陽介を風呂へ放り込むと、藤堂は鍋の下準備にとりかかった。
 包丁が規則的なリズムを刻むのに任せながら、そういえば夕飯をまだ食べていなかったことに気付く。自覚すると、途端に腹の虫は自己主張をはじめた。まるで陽介が外の冷えた空気と一緒に他のものも連れてきたようだと思った。
 ご丁寧に二人分には多すぎるだろうというくらい、鍋に必要な一式が揃えられていた。
 白菜に包丁を入れたとき、風呂場から調子っぱずれな鼻唄が聞こえだす。堂島はもっと野太く、音程は怪しい。菜々子は彼女らしく明るく、整った旋律だ。陽介は歌は下手ではないくせに、歌の法則だとかは一切無視してただ陽気に歌う。歌うときはきちんと歌うのだろうが、今はただ心に任せてといった感じだ。
 きっとこれはクマなんだろうなと脈絡なく思った。
 その考えはすとんと胸におさまった。そういえば修学旅行や旅館へ泊まったとき、ちょうどああいった感じに好き勝手やっていた。きっと陽介の家でもいつもあんな風だったのだろう。
 きっと同じだ。菜々子と一緒に暮らしていた自分がいつの間にかきちんと「いただきます」と言うようになったのと。
 そのクマは姿を消してしまった。
 だからなのか、と納得する。急な陽介の訪問の背景は、考えれば実にあっけないものだった。
 藤堂はそのまま黙々と作業を進めた。材料を切り、並べ、鍋をコンロにかけたところで、例の鼻唄をお供に陽介が出てくる。
「おー準備ばっちりじゃん」
「あったまったか?」
「あ、お風呂ありがとうございました」
「いえいえ」
 陽介はいそいそと鍋の前に座り、目を輝かせる。やっぱこー寒いと鍋だよな、などと笑っている。
「陽介」
 器を取りに行っていた藤堂が、ふと気付いたように名を呼んだ。笑顔のまま振り返った陽介は、急に視界をふさがれる。
「ふおっ!?」
「……ちゃんと乾かさないと駄目だろ」
 がしがしと藤堂は色素の薄い髪を拭きはじめた。
 しばらく陽介は奇声を発しながらじたばたしていたが、やがて観念したのかおとなしくなる。藤堂は黙々と手を動かす。
「……おかんだなぁ」
 やがてぽつりと陽介がもらした。
「ん?」
「いやいや、こーゆーのって誰かにやってもらうの気持ちいいよなって」
「確かにそうだな。背中を流してもらうのもなかなか」
「ってそれクマだろ? センセイお背中お流ししますーつって」
「そうそう、旅館で」
 その言葉で陽介はあることを思い出したようだった。疲れたように溜め息をつく。少しだけ、おかしそうに。
「実は修学旅行でも大変だったんだよなー」
「ラブホテルで?」
「その言い方やめろって。お前が入ったあと入るって聞かなくてさ」
「へー」
「止めんのすっげー大変だった」
 陽介は切々とその時の大変さを訴えた。クマに随分てこずったらしい。完二もお世話になってるから背中でも、と言って入りたがったらしいのは寝耳に水だ。そういえば随分部屋が騒がしかったような、と思い返す。
 そこでふと疑問がわく。
「なんでだ?」
「なにが?」
「なんでそこまでして止めたんだ?」
 藤堂としては別にクマがぬいぐるみのまま入ってこない限りは問題ない。事実旅館でも皆で一緒に入ったし。けれど陽介は絶句した。
「なんでって……」
 そう言って、それきり黙りこんでしまう。藤堂は手を動かしながら続きを待ったが、そうこうしている内に髪がすっかり乾ききってしまう。鍋のスープも沸騰しはじめた。
「もう大丈夫か?」
「あ…、おう! さ、食おうぜ!」
 手櫛でがしがしとなでつけると、陽介は妙に明るい声をあげた。
 さっさと白菜と茸類を鍋に放り込んでいく。
「陽介」
「な、なに?」
「しらたきと豆腐も先にいれないと」
「あ、やべ」
 それからはあっというまだった。あれこれと鍋の順番について熱く語り合い、そうこうしてる間にできあがって、どんどん箸が進む。酒も進んだ。一体どうやって調達したのかは謎だが、深く考えるのは意図的に避けることにした。不思議なことに、二人とも事件のことにはあまり触れなかった。そうすると気分が沈みこんでしまうと自覚していたから。
 何より、誰かと居間で過ごす、この久しぶりの感覚を藤堂自身楽しんでいたからに違いない。
 淋しかったんだな、と思う。自分も陽介も。
「なぁ、陽介」
「あに?」
 陽介は案外酒に弱かったらしい。というか、随分飲んでいた。顔は真っ赤で、呂律も多少怪しい。正気かどうか測りかねたが、だからこそ思い切って問うてみた。
「淋しかったのか?」
 陽介はしばし止まったあと、大根をひょいと口の中に放り込んだ。口をもごもご動かしながら、陽介は何か考え込むようなしぐさを見せる。戸惑っているのかもしれなかった。ようやく「そうかもな」と小さく声を返す。
「クマがいなくなってさ、家がなんか急に寒くなったつーか」
 想像でしかないが、クマは花村家で愛されていたのだろうなと思う。第一、でなければ得体の知れない存在を家に置くなんて考えられない。
「お袋もちょっと淋しそうにしててさ」
「陽介も?」
「……まぁ俺も、だな」
 陽介は曖昧に頷くと、ごろんと寝転がった。足がテーブルに少し当たって、鍋の中に波紋が浮かぶ。でもそれだけじゃなくてさ。陽介はぽつりといった。
「クマいなくなって、はじめて分かったつーか、お前のこと」
「なにが?」
「堂島さんも奈々子ちゃんもいなくてさ、でも俺、どっかでお前なら大丈夫だって思ってた」
 陽介は大きく息を吐き出した。
「お前ちょっと凹んだところ見せても、次の日にはけろっとしてたし。そういうの、表に全然ださねーし。俺、お前のことなんも分かってねーんだなって」
 声が震えた。
 陽介はまるで天井の明かりが眩しいとでもいうように、腕で目を覆い隠してしまう。続く言葉はなかった。藤堂はしばしかたまった。どうしたらいいだろうと。
 逡巡していると、陽介はいきなりがばっと起き上がった。
「俺は、お前のこと相棒だって思ってるからな!」
 突然に宣言する。その目も顔も、赤い。藤堂はまじまじと見つめた。あまりにも見つめるものだから、なにか言えよ、と陽介は苦しそうに言った。
「ありがとう」
「それだけ!?」
 陽介は今にも泣きそうだ。酔ってるから感情が表に出やすくなってるようだ。
「いや、そのくらいしか出てこないんだ……その、俺は今まで一人でいることを苦しいとは思ってこなかったから」
 言いながら、藤堂はソファに寄りかかる。
「向こうにいたときは大抵一人だったし、こっちにきてから自分は淋しかったんだなって思って」
 陽介はどんな表情をしていいか分からないようだ。困惑している。
「でも気付いたのは最近で、そういうの、どうしたらいいか分からなかった」
 ひとつひとつ考えながら、藤堂は言った。自分の中の感情を形にするのはかなり難しい。こうやって長々と話すことはあまりない。淡白すぎる、といつも言われていた。
 ぐす、という音に目をやると、陽介は真っ赤な目で「そういうのは俺に言えよな」ともらした。
「ありがとな、陽介」
 俺も陽介を特別だと思ってる。
 そう口にすると、彼はぽかんと口をあけてかたまった。ついで面白いくらいに顔を真っ赤に染めて、「な、なにいってんの!?」などと慌てだした。カーペットをごろごろしたり、頭を抱え込んだり大忙しだ。そうこうしているうちに、机のかどに頭をぶつけてしまう。
「いてぇ!」
「おい、大丈夫か?」
 藤堂はぶつけたらしきところを擦ってやった。こぶにはなっていないようで、ほっと胸を撫で下ろす。痛みを忘れたように陽介は藤堂をほうと見上げてきた。
「どうした?」
 手を伸ばされる。腕が首にまわされて、藤堂はバランスを崩す。
 陽介に覆いかぶさる形になっていた。
「……陽介?」
「あーもうわけわかんねぇ」
 泣きそうなその声が耳に届いて、藤堂は言い訳した。自分も大概酔ってると。
 そう酔ってるんだ、こんな風に陽介に口付けるなんて。
「藤堂?」
 ぼんやりした陽介が名を呼んだ。なにされたか分かってないんじゃないかと思ったが、次の瞬間には尚一層強く引き寄せられた。二人とも、相当酔ってる。
 そう思わなきゃやってられないじゃないか。
 陽介の方にも腕をまわしながら、そう呟く。分かったことがいくつもある。
「陽介……」
 藤堂は顔を上げた。
 なにかこの衝動を伝えたくてたまらなかった。淡白、冷たいとすら言われてきた自分の中にもこんなものがあるんだと伝えたくてたまらなかった。でもそれは叶わなかった。
 陽介は可愛い寝息をたてていた。
「……このタイミングで寝るか、普通」
 思わず毒づく。
 けれど目の前の相棒はまったく聞いちゃいない。すっかり夢の中だ。明日になったら忘れてるかもな、と思う。覚えていたら覚えていたで面白いことになりそうだが。藤堂は笑うと、身体を起こした。
 呑気に口をあけて寝こける相棒のために、毛布を取りに。





「12月4日夜」