ちゃぷちゃぷ、ちゃぷ。
 小さい頃から水溜まりが無性に好きで、覗きこんだり、わざと足を踏み入れたりした。それは今も変わらない。見付けると、ついやってしまう。
 誰もいないと分かってる公園の片隅で、偽物の空を見つめた。
 おい、里中千枝。
 波紋に歪んだ自分に呼び掛ける。実に奇妙だ。何笑ってんの。さっきまで散々踏みつけていたから、水面は乱れるがまま。そこに映る景色も歪みっぱなし。
 そういうのをずっと見てるのが楽しいなんて、きっと誰にもわかんないだろうなぁ。
 ちゃぷちゃぷ、ちゃぷ。ちゃぷ。
 楽しい?
 いつの間にかマッシュルームカットの彼が立っていた。
 うん、楽しい。
 躊躇わずに頷く。笑いたきゃ笑えばいいよ、水溜まりの中じゃみんな笑ってる。
 楽しそうな千枝を見てると、俺も楽しい。
 でも彼はそう言った。言葉は真っ直ぐに飛んできた。少しは重力に従いなよ。じゃないと心臓がもたないじゃん。
 おいこら里中千枝。
 水の中の自分に呼び掛ける。
 勝手に真っ赤な顔とかしないで欲しいんだけど。





「水溜り」





 窓の外からは雨音がする。
 結構なそれは他の音も巻き込んで、一緒くたに地面に叩き付ける。ついでに時計も粉ごなにしちゃってよ。
 あーあ、せっかくの「りせちゃん特製いじらしくも可愛らしいメール」も形無しだ。頑張って考えたのに。
 うんともすんとも言わない携帯をちょっとこづいてみる。
 先輩、ちょっと難攻不落すぎやしませんか。
 雨の降る夜は静かすぎて、時計の音がよく響く。ちくたくちくたく。メールを送ってから返事が来ない時間がこれだけ過ぎたんですよーなんて。言われなくても分かってますー。
 ああもう、先輩寝ちゃうよ? 可愛い後輩は寝ちゃいますよ?
 明日文句言っちゃうんだから。そうしたらどんな顔するかな。もうちょっと携帯くん、ちゃんと働いてるの。電波とか遮断したりしてないよね? さぼってたら許さないんだから。
 ぱかっと携帯開いたところで、ビンゴ。メール着信中。もう、早くしてよ。でもダメダメ、そんな風にがっついちゃ可愛くないじゃん。
 ごめん寝てた。夢にりせが出てきたよ。なんか怒ってた。おやすみ。
 もう先輩、それだけですかぁ。こんな静かな夜はなんだか落ち着かないから、お話ししたかったのに。
 そんな風に返してみると、数分経って電話がかかってきた。
 もしもし、りせ?
 すっごい深みのある声。ああもう先輩ったら、優しいんだから。つけこまれちゃいますよ。……そこが好きなんだけど。





「音のない夜」





 ちょっと来て。
 下駄箱のところまでやってきたあいつに声をかけると、ほいほいついてきた。理由も何も告げてないのに、慣れた様子で数歩後ろをついてくる。
 後ろは振り向かない。でもそこにいるのは気配で分かる。こういうとき何も聞いてこないのは優しさってやつなの?
 屋上にあがると、空は少し曇っている。雨は降りそうで降らない。
 どうした?
 優しさを音に、私の心に迫ってくる。呼び出したのはこっちだけど、なんだか無性に腹が立つ。苛立ちそのままにちょっと足を蹴ってみた。いて、と声がした。別に痛くないでしょ。
 どうした?
 やっぱり痛くないんじゃん。そうやって撫でるのやめてよね。
 うつ向くと、うっすらと影が地面に映ってた。やっぱり曇ってる。晴れもしないし、降りもしない。
 何かあったのか、あい?
 あの空は泣き方ってやつを知ってるんだろうか。
 私は泣きかたなんて知らない。やつらはいつだって勝手に飛び出してくるんだから。誰が見てるかによって量を調節するなんて器用な真似、あたしにはしようと思ったってできない。
 でも、今目の前にいるこいつは。
 優しく髪を撫でる感触がある。言葉はない。いつだって、こうやって。
 ああもう、そんな風に私を泣かせないでよ。





「泣き出しそうな」





 銀の糸って誰が言ったんでしたっけ。
 問いかけにすらなってない問いかけに、けれども先輩は優しく笑いかけてきた。
 雨のこと?
 なにかの本で、見たような気がして。もごもごと呟くと、先輩はひとつ頷いて空を見た。普段の青さなど微塵もなく、一面の灰色が覗きこんでくるようだ。
 でも雨は嫌いじゃない。
 すっと窓の外に手を伸ばして、天から滴る糸に指を濡らす。空から垂らされた糸だとするなら、その先には何があるんだろう。何が待っているのか、どうして糸が垂らされるのか。引っ張ったら、天女でも落ちてくるのか。そんなお遊びのような、全く現実感のない思考に戯れる。
 直斗、と声がした。
 びっくりして振り向くと、先輩が手を握ってきた。
 二つの手を、銀の糸がつないだ。





「銀の糸」





 雨、降ってきちゃったね。
 神社で二人で話してたら、急に降ってきた。軒下で雨宿りしながら、なんだかひどく水をさされた気分になる。知らず、少し口を尖らせてた。
 雪子、寒くないか? 大丈夫?
 うん、大丈夫だよ。
 どこから取り出したのか、ハンカチで髪を拭ってくれる。
 優しく気遣われるのは、ふわふわした綿菓子みたいに甘い。甘いものは好きだけど、そんな風に与えられるのは慣れてない。おかしいな、強がりなんかじゃなく、本当に全然寒くなんてない。
 ちらと横目で見ると、彼はその切長な瞳を空に投げていた。たぶん通り雨だと思うよと呟く。前髪が少し濡れてはりついている。
 あの、これ。
 自分の声がどこかうわついてる気がした。彼と一緒にいるときはいつもそう。ありがとう。そう細められた瞳にどきりとする。吸い込まれる。
 ねぇ雪子、拭いてくれる?
 思わず目を伏せてしまった。でもきっと顔が赤くなってる。それにきっと、彼も意地の悪い笑みを浮かべてる。
 ああもう、憎たらしい。
 でもきっと何より憎たらしいのは、いつか止んでしまうこの雨で。





「遣らずの雨」





「雨色五題」