hangover

 腹から下を、ごっそり持っていかれた。
 長い戦いの末に子供を産み落としたとき、セシルはそんな不可解な感想を持った。
 全身から抜き取られた感覚を皮膚の上に乗せられたように、全ては遠い。どこか遠くで泣き叫ぶ声が聞こえる。それは実際には近くで響いているはずだったけど、セシルはまだ自失のなかにあった。
「おめでとう、元気な女の子ですよ」
 現実感を失った世界で実体を持って現れたのは、そんな産婆の言葉だった。
 産まれた。産んだのだ、この自分が。
 そう思うとようやく、細胞から乖離していた感覚は肌に馴染んだ。赤子が生を叫ぶのがはっきりと聞こえる。じわじわと全身に倦怠感が広がっていく。気を抜いたら泥のように眠ってしまいそうだった。
 けれどそのまま寝てしまうことはできない。
 産婆や母がこぞって赤ん坊を押し付けてきて、早く抱いてやれと言わんばかりだ。セシルとしても苦労して産んだのだから、きちんと抱きたかった。膨らむ腹は時々面倒だと思うこともあったが、やはり愛しさが募った。やっと生まれてきてくれたのだ。顔を見たかった。
「目元はあなただけど、耳はクロイツに似てますね」
 母が嬉しそうにそう言って子供を腕に抱かせてくれる。ひどく頼りない感触だった。
 そういえばクロイツを呼んでこないとと、母は足早に立ち去った。その足音を聞きながら、セシルは絶句して子供の顔をまじまじと見つめていた。
「……猿っぽい」
 幸い、その呟きは部屋の誰にも聞きとがめられなかった。
 真っ赤でしわくちゃな顔を見つめながら、これじゃ性別も何も分からないなと思った。耳はまだしも、目元なんてよく分かるものだ。ためしにおくるみを剥いでみようかと思ったところで、クロイツが部屋にやってきた。
「よくやったね、セシル!」
 男は出て行けと追いやられていたせいか、少し機嫌が悪そうだった。最も、それはセシルにしか分からないほどの表出だったが。クロイツは愛想のいい笑顔をはりつけて、子供の顔をのぞきこんだ。気のせいか、少し顔がこわばった。
「猿みたいだって思ったろう?」
 気を利かせて母や産婆が部屋を去ると、セシルはにやりと笑った。赤子はおとなしく乳を飲んでいる。クロイツは寝台に頬杖をついてそれをじっと見つめている。
「まぁね」
「顔がこわばっていたぞ」
「生まれたての赤ん坊なんて初めて見たからさ」
「ほう?」
「せっかく女の子なのに、セシルに似てなかったら悲しいと思ったんだよ」
「まぁこれだけ見たら猿そのものだからな」
「君もひどいね」
 クロイツは笑いながら、子供の頬をおそるおそるつついた。見るからに柔らかそうで、セシルは酒場でいつもつまみにしていたプディングを思い出した。
「名前はどうする」
「リヒェンはどうかな?」
「悪くないな」
 珍しくなんの刺もなくセシルが頷くと、クロイツは嬉しそうに彼女の膝に顔をうずめた。
「……重い。どけ」
「両手がふさがってる好機を逃すわけないじゃない」
「子供はひとりで手一杯だ、甘えるな」
「ひどいなぁ」
 くすくすと、笑いがもれるたびにかすかな振動が伝わってくる。調子にのって腹のあたりまで擦り寄ってくるが、子供を抱えているので振り払えない。セシルは呆れて息をついた。
「もういい大人だろう、馬鹿か」
「まぁいいじゃない。リヒェンばかり君に甘えてるなんてずるいよ」
「お前は子供相手にも嫉妬するのか?」
「とんでもない。君の腕と胸は今だけ彼女に独占させてあげるよ。俺は君の膝で我慢」
「冷たい床で我慢しろ」
 すげなく言ってみても、堪えるはずがない。
 またも喉の奥でくつくつ笑いながら、頭をセシルの膝にあずけたまま赤ん坊の手を握る。小さい手だなぁなどと呟いて。
「今度は男の子かな、ね?」
「どんだけ苦しんだと思ってる。今度はお前が産め」
「えー」
 不服そうに眉を寄せたクロイツは、けれども次の瞬間には何かを思い出したように笑った。気味が悪そうに表情を歪めるセシルを見やって、また笑う。
 ずっと思ってたんだ、と。
「君が男で俺が女で。そうであったらきっと何もかもうまくいったんじゃないかなって」
「お前みたいな女ごめんだ」
「言うと思った」
 クロイツは笑った。いつもより少しだけ、素の彼に近い笑顔だった。

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