君はペット?

 クリスは生まれて初めて、生きながらにして息が止まるという事態に遭遇した。
「ユーゲン!」
 慌てて駆け寄り、なぜか知らないが自分の家の前で倒れ伏していた魔術師を抱き起こす。まさか稽古から帰ってきて、憎からず思っている相手のこんな場面に遭遇すると思わなかった。
 地面には赤い模様ができていて、血の気が引く。
 素早く外傷のチェックをすると、それほど深い傷でもないようだ。歴戦の勇者たるユーゲンが傷を負うなんて一体何があったのだろう。力量的にも、経験的にも彼ほど頼りになる男をクリスは知らなかった。
 何はともあれ、クリスは自宅にユーゲンを運び入れた。誰か手助けでもあればと思ったが、ここは王都から遠く離れた場所だったのでそれも望めない。
「クリス……?」
「気がついたか、ユーゲン」
「迷惑かけちゃって……」
「このようなこと、迷惑でもなんでもない」
 言いながらクリスはてきぱきと治療を施していく。頭にこぶと、右手に打撲があった程度で済んでいた。血が出ていたのは口の中でも切ったのだろう。彼女は胸を撫で下ろした。
「大丈夫、大したことないよ」
「駄目だ。頭を打っているかもしれない。ちゃんと安静にしていてくれ」
「でも」
「いいから」
 珍しく無理に押し通せば、ユーゲンはとうとう大人しく従った。
 一体なにがあったのかと問い詰めたい衝動と戦いながら、クリスは軽い食事を用意した。朝に食べたスープと、帰りがけに買ったパン。料理はそれほど得意でもないが、スープ程度なら人に食べさせられる。
 彼の元に運ぶと、申し訳なさそうにしていた。
「食べられるか?」
「ありがとう」
 一応一人では食べづらいだろうと思って、自分の分も持ってきてはいた。けれどなかなか手をつける気にならない。
「大丈夫か?」
「うん、おいしいよ」
「いや、そうじゃなくて……あ、嬉しいんだが、そのなんというか、手は大丈夫か」
 ユーゲンは実にたどたどしく左手で食べていた。利き手を怪我したのだから当然といえば当然だが。
 クリスは悩んだ。
 ここは手助けすべきか、否か。そんなことを申し出たりしたら引かれてしまうのでは、といった懸念が頭をもたげる。けれど一向に食事は進んでいない。これは怪我人を助ける行動だ、と自分を鼓舞する。
「ゆ、ユーゲン」
「ってクリス、顔真っ赤だけど大丈夫?」
「な、なんでもない」
「もしかしてやけどでもした?」
「……いや、問題ない」
 そう、と呑気に魔術師は答える。クリスはどっと疲れた。手助けなんてとても言い出せない。
「あ、できれば食べるの手伝ってくれないかな」
 言われて火を噴くかと思った。
「ってこんなことを頼むのは変か、ごめ」
「問題ない!」
「あ、そう?」
 ありがとう、とやはりユーゲンは呑気だ。
 クリスはつとめて平静を装い、なんとか食事の手伝いを終えた。逃げるように後片付けに立つ。
 時々クリスは彼に踊らせられているのではないかと思うことがある。これを無意識でやっているのだとしたら凄い。きっと自分ひとりが踊っているだけなのだろうけど。
 居間に戻ると、ユーゲンはソファの上で寝こけていた。腹がくちて眠気に逆らえなくなったのだろう。
起こして寝台に移すことも考えたが、せっかく寝ているのに起こすのは忍びなかったので、クリスは毛布をそのままかけてやった。自分もそのそばに腰掛け、ソファを背もたれに暖炉の火に気を配る。
 クリスは爆ぜる音と寝息に耳をすませた。



いつの間にか眠っていたらしいと気付いたのは、鳥のさえずりが窓から漏れ聞こえたときだった。
ユーゲンにかけたはずの毛布をかけられていて、はっとする。せわしく部屋を見渡せば、彼は台所で飲み物をいれているところだった。
「おはよう」
「お、おはよう。怪我はどうだ?」
「手はまだちょっときついけど、もう頭は痛くないよ」
 クリスは安堵した。頭を強く打っていた場合では対処しようがなかった。けれど見たところ顔色もいい。
 そのまま立ち上がって、彼女は台所に寄った。
「飲む?」
「ああ、ありがとう」
「寝室で寝なかったのかい?」
「起きているつもりだったんだが……」
「本当にごめんね、急におしかけてしまって」
 大丈夫だ、とクリスは首を横に振る。こうして無事でいてくれたのだから言うことはない。それよりも気になるのはどうしてあんな怪我をしたかだ。
 それを問おうと口を開くと、思いがけないことを言われた。
「しばらくここに置いてくれないかな?」
 クリスは反射的に頷いてしまった。
 ありがとう、とユーゲンに言われて初めて事の重大さに気付く。彼の手助けができるのは構わない。ただ一つ屋根の下に二人きりとは。
 クリスは自分の心臓がもつか真剣に悩んだ。
「まぁ僕のことは飼い猫みたいなものだと思っていいから。気にしないでね」
 随分簡単に言ってくれる。
 まぁ彼のことだから気にしないでと言われれば本当に気にしないのだろう。だがクリスにそれは難しかった。嫌ではない。だから困っている。
「と、とりあえず風呂でも入ったらどうだ」
 汗もかいたろう、と言えばユーゲンはあっさり頷いた。じゃあ借りるね、と教えられた場所に向かう。
「あ、そうだ」
 朝食の用意にとりかかろうと思っていたクリスに、ユーゲンは思いついたように言った。
「手を怪我してるから頭を洗うの手伝ってほしいな、なんて」
 クリスは声もなかった。
「いや、あの、え?」
「うんごめん、冗談だよ」
 ユーゲンはあっさり笑うと、すたすたと立ち去った。残されたクリスの混乱は計り知れない。でもここに同じ騎士団に所属していた魔女がいたならば、あれは半分本気だったと看破したことだろう。
 クリスはしばらく思考が停止していた。

 ユーゲンは風呂から上がると、何事もなかったかのように散歩をしないかと提案してきた。
「散歩?」
「そうそう」
「だがその怪我で……」
「大丈夫だよ、ただ近所を歩くだけだから」
「だが」
 クリスはしぶった。まだ怪我の原因を聞いていないのも一因だった。もしかしたら語りたくない理由があるのかもしれない。何かに巻き込まれたりした結果だとしたら、外に出すのは危険とすら思った。片手の使えない現状では。
 だがユーゲンはどこまでも我が道を行く。
 さあ行こう、と笑ってクリスの手を取った。
「ゆゆゆ、ユーゲン」
「うん、ほら行こう」
 僕は飼い猫みたいなものだからちゃんと繋いでおかないとね、と嘯く。クリスは何度目か知れない、言語中枢の麻痺を自覚する。
 そのまま手を引かれ、海岸線を歩いた。
 何を話すでもなく、ユーゲンはただ歩く。言葉など到底見つからないクリスもただ黙々と歩いた。
 本当に怪我人であるのか疑わしいとすら思える。
 どうして健康であるはずの自分がこんなに疲れきっていて、ユーゲンはあんなに悠々自適としているのだろう。不公平だとすら思う。
「ねぇ、クリス」
 ユーゲンが名前を呼んだ。
 もう何でもこいといった諦めの境地で、クリスは首をめぐらせてその瞳を見た。彼は笑っていた。
 お願いがあるんだけど―――



「わあああああ!」
 叫び声をあげて、クリスは寝台から転げ落ちた。
 どすんと鈍い音がして、腰に鈍い衝撃が走る。けれどそんなものより火照って仕方のない全身の方が問題だった。うっすらと目を開けて、ようやく夢だったと悟る。当たり前だ、あんなことはありえない。
 あんな、あんなことを言われるなんて。
 ともすれば言葉を反芻しそうになる意識を戒め、クリスはなんとか呼吸を整えようとした。そもそも彼を飼い猫だと思う時点でおかしい。いや、思えといったのは彼だったか。いや、とにかくおかしい。あまりに生々しい夢だった。心臓に悪い。
 クリスはゆっくり立ち上がった。腰の痛みは大分引いていたが、心臓の早鐘はそう簡単には収まってくれそうになかった。
「クリス、大丈夫かい?」
 ユーゲンが声をかけてきた。当然だろう、彼がイルグールに構えている住居は小さい。聞こえていたに違いない。
「だ、大丈夫だ」
 クリスは思った。
 そばにいられれば、それだけで何もいらない。

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