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カップの水に、白濁した液をたらす。 子どもたちには魔法の液だなんて言って。泡立たないように静かにかきまぜてから、それを魔力で空中に浮かせる。 驚くような声がそこかしこで聞こえた。 球状で浮かぶそれに手を加え、さらに分化させる。いくつもいくつも、小さな水球が己の周りを浮遊する。ひときわ元気な男の子が捕まえようとしたので、ついと避けてやった。 笑い声が響く。 自分の口端にも笑いが滲むのを自覚しながら、更に水球に魔力を加える。 球状から円盤へ。 薄く膜を張ったようなそれらの下から、微調整した風を送る。 七色に輝く光の球が、空に舞った。 わぁ、と歓声があがった。 円盤は大きさも濃度もそれぞれ微妙に変えたから、大きさや輝きの違うものたちが目に鮮やかだ。笑いながら飛んで跳ねて、駆け回る子どもがいた。捕まえようと手を伸ばし、すぐさま壊れてしまう脆いものたちに小さな悲鳴をあげる子どもがいた。そんな全ての子どもの前にまた光の球を踊らせる。 子どもたちは笑っている。 「―――楽しそうだな」 不意に聞き覚えのある声がして、つい魔法を止めてしまった。動揺して、円盤が弾けた。泣き声が響く。 「クリス…」 それはまぎれもなく彼女だった。数年前に別れたきりの。 突然の侵入者に子どもたちは身構えた。泣き出す子さえいた。 ユーゲンも薄く息を呑む。 裂傷が、彼女の顔半分を潰していた。会わなかった数年の間に、何があったというのだろう。綺麗な色素の薄い瞳は、ひきつれたような傷に隠されてしまっている。 けれど、誇り高い眼差しはそのままだ。 何も変わらない。 なのに子どもたちの恐怖が堪えたのだろう、彼女はさっと顔を背けてしまう。 だから、自分は。 「久しぶりだね、クリス」 微笑む。彼女が笑顔を見せてくれるように。 「せんせい、おともだち?」 「そうだよ」 「きしだんの?」 「そう。世界を守る人だよ」 子どもたちの警戒は一応はとけたようだった。恐怖はまだ拭いがたいようだが、いずれ時間が解決するだろう。去っていく子どもたちの小さな背中を見ながら、そう思う。 「すまない」 「なにがだい?」 卑怯だな、と思った。 こう返してしまえば彼女が何も言えないのを知っているから。 「ひとりかな?」 「あぁ、騎士団は今頃ノースランドだと思う」 「もしよかったらうちに来るかい? お茶くらいしか出せないけど」 ひとつ間を置いて、彼女は頷いた。 道すがら、引退後の騎士団の様子を聞く。団長に子どもが生まれたり、思いがけないカップルが成立したり、かなり楽しいことになっていたらしい。 話は尽きない。 離れていた年月を埋めるように、次から次へと言葉を重ねていった。けれどそれもユーゲンの部屋の惨状をクリスが見るまでだった。 すっかり呆れたようだ。言葉を失っている。本部にいた時よりひどい自覚はあったから、尚更だろう。 「僕に片付けは無理だからねぇ」 笑うユーゲンに相変わらずだな、と苦笑する声音にはどこか安堵の色があった。 積み上げられた本に目をやりつつ、クリスが聞く。 「イルグールに住むことにしたのか?」 「いつの間にか、ね」 飽きもせず灯台を日がな一日中見つめて過ごしていた。そうしたらいつの間にか子どもたちが集まり始め、先生と呼ばれ、村人たちに頼られるようになった。やがてこの空き家を与えられ、字を教え、自衛の心構えを教え、魔力を駆使するすべを教える日々。 「…幸せそうだな」 「そうだね、案外僕は子ども好きだったみたいだ」 なかなかどうして、可愛いと思ってしまう。 「あなたには向いていると思う」 「君は、クリス? これからどうするんだい?」 「…決めかねている」 「ならしばらく、ここにいるといいよ」 君さえよければと続けようとした声は、空気を震わすことはなかった。彼女は固まっていた。 「クリス?」 「あ、いや、迷惑でなければ」 慌てたように何度も頷くクリスも、相変わらずだと、そう思った。
散歩でもしようか。 本の山と格闘する彼女に声をかける。ここにやってきてから、せめてまともな足の踏み場くらい作ろうとクリスは奮闘してくれていた。何をするでもない。ただ静かに言葉を交し、魔術師のずぼらさが築いた塔の攻略にいそしむ。 その後ろ姿になんとなく申し訳なくなって、昼下がりの海辺へと誘う。 「あの霧は、晴れないのか?」 常霧の海を見つめ、クリスが問う。 「まるで精霊がいたずらするように霧が晴れることはあるそうだけど、見たことはないかな」 なかなかないそうだよと言えば、クリスはどこか残念そうだ。 「ウンディーネの微笑み、なんて地元の人は言うようだけど」 「ほぅ」 「あとはウンディーネが怒ってインフェルノを遠ざけるためなんじゃないか、って話もあるなぁ」 「怒る? ウンディーネが?」 「そう。インフェルノがリオンの地を枯らしてしまったから、彼女は怒って、この海の向こうにある大陸からインフェルノを遠ざけたって神話があるんだ」 「初耳だ」 「不確かな伝承だからね。そしてリオンの地はインフェルノにも見捨てられ、手を差しのべたのが女神だって言われてる」 はじめて聞く話ばかりだな、と彼女は苦笑した。 「でも面白いよね、霧を作ってまで遠ざけようとした火で、人は海を渡るんだから。僕はウンディーネが本当に遠ざけたかったのは人だったんじゃないかなって、そう思うんだ」 そんな風に思うのは、精霊を絶対視しない魔術師という職ゆえか、己の性格ゆえか。おそらく両方だろう。 「インフェルノは、人に言葉を与える精霊。火という英知をもたらしたもの」 火とは壊し、新たなものを生む力を持つ。 「ただ受け止め、全てを受け入れる水とは相性が悪いのも道理だよねぇ」 そんな風に一人笑ったところで、あっけにとられたようなクリスに気付く。 またやってしまった。 「ああごめん、僕の悪い癖だね」 「いや、面白い話だ」 「子どもたちには話が長いだの言われたけどね。…あ、噂をすれば、だね」 四、五人の子どもたちが砂をいじっていた。声をかければ、嬉しそうに近寄ってくる。だがクリスがいるからなのか、いつものようにはまとわりついてこない。 「彼女はクリス。一度会ってるね?」 問いかければ頷くが、声をあげはしない。猫みたいだなと思う。いやに警戒心が強い。 まだ無理かなと諦めかけたところで、一番年少の少女がおずおずと声をあげた。 「せかいをまもるひと?」 クリスはしばらく間を置いて、頷いた。 「まもったから、けがしたの?」 少女は近付いてきた。 「いたい?」 「…大丈夫だよ」 腰を屈めて目線をあわせ、クリスが安心させるように言った。 それを見て、叶わないなぁと思った。僕の意図された微笑みなんかより、純真な言葉の方が遥かに力がある。ちょっとつまらない。 子どもってのは単純で、怖くないと分かってしまえば馴染むのは早い。あれこれ悩んでしまう大人の方が、こういうことは鈍かったりする。 「ねぇねぇ、けんおしえて!」 「せんせい、つえでなぐるしかしらないんだ」 「こらこら、僕の弱点言うんじゃないよ」 「かみ、どうやってあんでるの?」 「これなあに?」 男の子はクリスの下げる剣が気になってたらしく、木の棒を取り出してきた。女の子はクリスの髪型やら装飾品に夢中だ。正直、僕は手持ち無沙汰だ。つまらない。 「せんせぇ」 クリスの心を溶かした少女が隣に座った。この子は察しがいい。そんな寂しそうにしてたかな、と苦笑する。 「なんだいエクレス?」 「ふたりは、けっこん、してるの?」 背後で咳き込む音がした。 「結婚はしてないねぇ」 「じゃあ、すき?」 更に咳き込む音。 「うん、好きだよ」 ばきっと痛そうな音がして振り向けば、クリスが少年たちに一太刀浴びせられたようだ。 平気かい、と急いで声をかけるがクリスは顔をあげない。打ちどころが悪かったかと近付けば、慌てたように問題ないとくぐもった声が届く。 「いいから見せて」 「だ、大丈夫だ」 「見るだけだから」 「いやあの、へ、平気だ」 そんな押し問答を繰り返していたところで、エクレスが声をあげた。 「せんせぇ、ウンディーネが微笑ったよ!」 僕らは海を振り返った。 海が光をたたえ、その姿をあらわしていた。なるほど、まるでしかめっつらの海が機嫌を直したようだ。顔を隠していたウンディーネがその表情を見せる瞬間。 やっと微笑ったね、と僕は言った。 同じく微笑む彼女に向けて。
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