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それはまだ、混沌としていた時代の物語。
のちに黒き無限の災いを退けて世界を救った男は、まだ徒人であった。
名を、ブラッドといった。
「聖ベリアス樹海で、民衆の武装蜂起が準備されているとの情報が入った。明日には出発することになる。各自準備を怠らぬように」
淡々と、今回の任務の説明をする。すると即座に辺りが動き出す。
その様を鋭い目で見据えるのは、若くしてアルセナ正規軍の小隊長を務める男である。名をブラッドといい、戦場の鬼神と恐れられるほどの実力者であった。
その眼光は鋭く、戦場では悪魔のように輝くとさえ言われている。そこからついた呼び名を、惨劇のディアボロスといった。その光が、一人の動かぬ男をとらえる。彼の小隊に所属する弓使いだった。
「どうした、怖気づいたか」
「聖ベリアス樹海の別名、隊長は知らないんですか」
「別名?」
「夢魔の森といって、森が幻覚を見せるんだそうです。母は森の民で、僕に決してその森には入るなと言っていました」
「そんな話は聞いたことがない」
くだらない。言外にそう言い捨てた。
「皆が恐れ、森に入ろうとしなかったからです」
必死になって言い募る男に、ブラッドは冷たい一瞥をなげる。
「戦場以上に恐ろしいものを、お前は知っているのか」
「それは…」
「幻覚にせよ戦場にせよ、弱い者が死ぬ。強い者、そして生きる意志の強い者が最後は生き残る。死にたくなければ、逃げればいい」
何かを言おうとした弓使いを、ブラッドは睨みつけて黙らせる。
「逃げるか戦うか、自分で選べ」
言い捨てると、きびすを返す。それは、常に戦うことを選んできた背中だった。
作戦会議に向かうために兵舎の廊下を歩いていると、不意に呼び止められる。
「あいかわらず、厳しいな」
低いが突き刺さるようなブラッドの声とは対照的な、聞く者を惹きつけるような声。
確かめなくてもそれが誰かは分かったが、ブラッドは声のする方を見やる。柱に寄りかかるようにして、大柄な男が立っていた。ゆるく波打つ黒髪を一つに束ね、何が面白いのか、いつも口元に笑みを浮かべている男だった。更に言えば、ブラッドの嫌い…もとい苦手な種類の人間だった。
「聞いてたのか、ヴィンス・ヘイル」
「嫌味かあ? フルネームじゃなくて名前で呼べって」
「何か用か、“ヘイル”」
「まったく、お前は相変わらずだな」
「…用がないなら、道をあけろ」
「ま、そう言うなって。お前ンとこの小隊もベリアス樹海に行くんだろ?」
さっと道をあけると、彼もブラッドに並んで歩き出す。ヴィンスも小隊を預かる身であり、唯一恐れることなくブラッドに接することのできる人物だった。
「まさか、お前もなのか?」
「なんでそう嫌そうな声だすかね…」
「お前は俺とは所属大隊が違うだろ」
「それだけ大規模な戦になるってことだろ」
肩をすくめる仕草とは裏腹に、その眼光は鋭い。
「…シーリンドか」
「その通り、察しがいいね。きっと、激しいものになるだろうな……」
どこか遠くを見つめるように、ヴィンスは呟く。さきほどまでの瞳の輝きは、どこか翳りを帯びたようだ。
「…人殺しの職業を厭うなら、さっさと引退しろ」
「おやおや、ブラッドの入隊当初からの友人に何てことを」
「誰が友人だ」
「まぁとりあえず、もうすぐ子供も生まれるから軍はやめられないなぁ…」
「所帯を持ったような男が、人殺しを仕事とわりきれぬまま戦場に立つのは迷惑だ」
アルセナ国の支配を望まぬ民衆は、自由を求めて戦う。
そんな場合、子供も老人も関係なく、戦える者はみな武器を手に取る。それが戦場というものだ。そこでの迷いは、死に繋がる。そして、軍全体の士気にも影響する。
「家族がいるから、がむしゃらに戦って生き残れる…ってのもあるだろ?」
ブラッドの辛らつな言葉にも、ヴィンスは穏やかに言う。
確かに彼は、ブラッドが入隊してからの知り合いのうちの、唯一の生き残りだった。
あとはみな、死んでいった。
それが、戦場というものだった。
天からの雫が、顔に当たる。
だが、その冷たさを打ち消すのは、飛び散る紅の色彩。
いつものように、ブラッドは剣を振るっていた。まさに鬼神のように。悪魔のように。
それでも、敵はなかなか殲滅できない。理由は簡単だった。
「シーリンドめ…!」
部下の一人が、うなるように叫ぶ。ただの民衆蜂起をより複雑にしているのは、シーリンドによる援助だ。見れば、ブラッドの小隊にも犠牲は出ていた。これ以上長引いたら、もっと犠牲が増えるだろう。
更に強く剣を握りなおした、そのときだった。
光の剣が、天を切り裂いた。
轟音と、あまりの眩さに、戦場にいた誰もがしばらく動けなかった。ブラッドも例外ではなかった。
ふらつく頭を支えながら、辺りを見回した彼は、硬直した。
黒く、大きく、恐ろしい魔物がいたのだ。それも、そこら中に。
「…まさか…魔精アグレス……?」
小隊の魔法使いが呆然と呟いた。信じられないといったように。
当然だ、そんなものは伝承でしか聞いたことがない。戦い続ける愚かな人間たちに、精霊が遣わしたとでもいうのか。
突如として現れた魔物たちは、すさまじい咆哮をあげた。空気がビリビリと震え、耳が痛い。多くの者が現状を理解できず、またある者は足がすくんで動けなかった。ただ立ち尽くしている人間たちに、魔物は容赦なく力を振るう。敵味方関係なく、血が舞う。化け物に殺されていく。倒れていく者たちの中には仲間もいた。
「…っ! 隊列を立て直せ!」
ブラッドが声を限りに叫ぶが、その声は届かない。すっかり混乱に陥っていて、誰も彼もが手当たり次第に目の前の”敵”を攻撃していた。
恐怖が、人々を駆り立てる。
『森が幻覚を見せるんだそうです』
もともとあたりは暗く、視界は悪い。魔物は闇に潜み、どこから攻撃されるか分からない。加えて、混戦状態の中で仲間の存在など認識できなかった。
それら全てが恐怖をあおり、狂気へと追いやっていく。
「正気に戻れ!」
その中でただ一人、ブラッドだけが声を張り上げていた。
彼も向かってくる敵は手当たりしだい倒したが、恐怖からではなった。
ただ、生きたかった。
剣を振るっている間中、ずっと耳鳴りがしていた。
あまりに長いあいだ戦い続けていたせいか、自分が独りになってしまったことに気付くまで時間がかかった。かすかなうめき声は聞こえるが、人が動いている気配は、全くない。
みな、死んでしまった。
―――覚えがある。
この静寂は、今まで経験してきたものと似ている。
強くあり続けること、生き残り続けることは失い続けることだった。故郷を出て戦場に立つようになってから、累々と積まれた屍のなかを歩く感触は、何度も経験してきた。
けれど、これほどの静寂をブラッドは知らなかった。
負傷した足を引きずるようにして、鬼神は戦場をさまよう。気が狂いそうだった。
「ブラッド!!」
思わず叫び声をあげそうになった時、知った声が自分を呼んだ。
「ヴィンス…?」
「無事だったか!」
いつも陽気な男ではあったが、これほど声を張り上げ取り乱す姿は見たことがなかった。
「お前も…無事のようだな」
二人とも多少は負傷しているが、命に関わるほどではない。
「俺の隊は…全滅だ」
「…お前の隊だけじゃねぇ、アルセナ軍もシーリンドも、全滅だ」
見渡せば、目に映るのは敵も味方もなくなった死体と、巨大な怪物の肉塊だけだった。
どうやら、まともに動けるのは彼らだけのようだった。
「とりあえずここを離れて、どこか見渡しのいい場所にでも出るぞ。まだどこかにアグレスが潜んでるかもしれん」
「ああ」
すると、ヴィンスは急にブラッドの腕をとり、自分の肩に回した。
「なんのつもりだ」
「足怪我してんだろ、こんな時までそう構えるなって。お前を一人で歩かせるより、こっちの方が早い」
「もし急襲があったらどうする」
「だからさ、さっさとここ離れようぜ。問答してるほうが効率悪い」
そう言われてしまっては、効率を気にするブラッドとしては何も言えない。
無言のまま、二人は進んだ。
できるだけ見通しのいいルートを選びながら、動かぬ人影ばかりを横目で追う。
「また、俺たちだけが生き残っちまったな…」
ヴィンスが、静かに言った。
思わずブラッドは彼の横顔を見上げるが、視線が絡むことはなかった。
やがて鬼神も前に向き直り、ただ一言だけ呟いた。
「そうだな…」
「おっ、ここいいんじゃないか?」
二人がたどり着いたのは、遺跡だった。
遺跡といっても天井は跡形もなかったし、どうやら礼拝堂か何かだったらしく、随分広々としていた。出入り口も一つしかないので、敵襲という点では特に問題はなさそうだった。
「とりあえず夜が明けるまでここにいて、視界がよくなったら森を抜けるとしよう」
頷きながら、ブラッドは自分の口下手ぶりを忌々しく思っていた。
たった一言が出てこないのだ。
ありがとう、の一言が。
「……お前の言うとおりだったのかもな」
自然と重くなった沈黙を破ったのは、ヴィンスの呟きだった。
「なんのことだ」
「所帯を持つような男が戦場に出るな、ってやつ」
「それは…」
そんなつもりで言ったんじゃない。そう言おうとしたが、相手はそれよりも早く言葉を紡いでいた。
「無事に帰ったら、俺は軍隊をやめるとするよ」
「……そうか」
ブラッドは、それだけしか返せなかった。
淋しいのかどうかは分からない。ただ、自分は一人になるのだと思った。
「―――お、そろそろ晴れるか?」
見れば、雨足はだいぶ弱ってきていた。
言葉の出てこないブラッドは、ただ天を仰ぐ。その傍らで、ヴィンスも目を細めて空を見ている。
「軍隊辞めても、家は王都に構えるからブラッドも淋しくないだろ?」
「勝手に言ってろ」
「そう言うなって。淋しくなったら、いつでも遊びに来いよ。そうだ、俺の子供の顔でも見に来てくれ」
弱まる雨足に影響されたのか、ヴィンスはいつもの調子で話し出す。ブラッドも、いつものように返事を返す。それは、二人が嫌というほどに戦場を理解していたからかもしれない。これから起こることを、無意識に悟っていたのかもしれない。
戦場とは。弱い者が死に、強い者、そして生きる意志の強い者が生き残る場所。
けれど。
どれほど強くても、どれほど生きたいと望んでも。
そんな命さえ、無慈悲に奪っていくのもまた、戦場であった。
「……なにか聞こえたか?」
「お前も聞こえたか。なにか…ひきずるような……」
途端に、二人の眼光が鋭くなる。
静かな雨音に混じり、かすかだが不自然な音がする。それは、ブラッドたちのいる遺跡の近くをゆっくり移動しているようだった。不意にピタリと音がやみ、戦場の鬼神は意識を集中した。
―――突然だった。
轟音とともに遺跡の壁が崩れ、ブラッドたちの背後で凄まじい咆哮があがった。
そして気がついたときには、ブラッドの目の前を黒い物体が飛んだ。
ヴィンスの、首だった。
そうだと思うよりも早く、ブラッドの中で激しい衝動が沸き起こる。
心の奥底から憎しみがあふれ出て、それが命ずるままに彼は剣を振るった。
紅ではなく、青の色彩が彼の上に降り注ぐ。
ぴくりとも動かなくなった黒い物体を見下ろしながら、ブラッドは大きく息をしていた。顔にかかった青い血が、肌を焼くようだった。やがて、異変に気付く。
気付いたが、もう遅い。
なすすべもなく、そのまま地面に崩れ落ちてしまう。アグレスの血は毒なのだということを、その時思い出した。
呼吸は浅く、速くなる。木枯らしのような音をさせて、喉から空気が出る。耳の奥で血液の流れる音が響く。
視界に入った夜空では、雲間から月が顔を出していた。
戦場に似つかわしくない、真っ白な月。
死ぬのか、と。
ぼんやりとブラッドは思った。そっと横を見れば、ヴィンスの首があった。
一人になったのだ。本当に、ひとりに。
ならば死ぬのもいい、と。
みなと同じように、冷たい土の上に横たわればいい、と。
今まで思ったこともない言葉が脳裏に浮かんだ。負け犬の思想だと、バカにしていたはずの声だった。その時初めて、戦場の鬼神は“住処”に背を向けたのかもしれない。
そのまま静かに瞼を下ろそうとすると、声がした。
「生きなさい」
涼やかで、逆らえないような威厳を持っていて、けれど静かで。そんな声が、した。
霞がかってきた眼で見れば、女がたたずんでいた。彼女は、夜の闇に染まらぬ光をまとっていた。
女神。
何の前触れもなく、その単語が頭に浮かぶ。
「生きなさい」
女神は、もう一度繰り返した。
生きろ、と。
倒れている男に音もなく歩み寄ると、かたわらに膝をつく。そして、彼女は男が手放した剣をひろいあげた。
女神は、何人もの血を吸ってきた剣で、自身の肌を裂いた。透き通る、怖いくらいの白に、あざやかな紅が踊る。それは細い指を経て、ブラッドの唇へ。
途端に、体中の痛みがひいていく。
女神から与えられた血は例えようもないほど甘美で、けれどもすぐに溶けて消えてしまった。ブラッドはそれを惜しみ、切望した。女神の細い手首を捕まえて、半身を起こしたブラッドは、その白い首筋に唇を寄せる。まるで赤子が求めるように。
ささやくような吐息が、女神の口からこぼれた。
「永遠を、生きなさい」
それから数日後。
調査に訪れたアルセナ兵は、深い森のなかに、さらなる森を見た。
死体によってつくられた、森だった。
木々の合間を、僧侶と神官が紡ぐ祈りの言葉が流れていく。
やがて一人のアルセナ兵が、打ち捨てられた遺跡の中に横たわる死体を見つけた。
その死体は小隊長を務めていた男だった。野ざらしになっていた他の死体とは違って、首と胴体は切り離されていたものの、胸の上できちんと手が組まれていた。
そうしてまた、不思議な知らせがもたらされる。
敵からも自軍からも恐れられた悪魔であり鬼神でもある男は、終ぞ見つからなかったと。
これは、百年もの時を戦い抜いた男の、始まりの物語である。
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