トレモロ

 それは、暖炉の側で語られた物語だった。
 私に話してくれたのは師であるアリオーソ先生で、そもそも先生にその話を教えたのはそのまた師匠だったらしい。焚き火の側で、時折火をかきまわしながら語られたものらしい。
 これはウェロー自身の物語なんです。
 そう前置きした先生は、いつもは決してみだりにウェロー大先生の話はしない。大先生の名前を出すときには、いつだって寒さを堪えるような様子だった。今も暖炉の火にあたって寒さを思い出したかのように、そっと身震いした。
 僕は無理に話さなくてもいいんですよとやんわりと促してみたが、先生はかぶりを振った。今日はなんだか話したい気分なんです、と。
 先生は疲れていた。一仕事を終えたあとの虚脱とはまた違っていた。きっと明日の朝には、誰かのの訃報が街中を駆け回るのだろう。先生が何をしたか、何をしているか、僕は薄々知っている。僕が感付いていることを、先生も感じている。けれど僕が知らぬふりを通す限り、僕は先生の弟子兼世話役として側にいられるのだった。
 トリル、火を強めてくれますか。先生が言った。
 僕は無言で薪をさらにくべた。一瞬だけ火は弱まったが、すぐに新しい薪も火に巻き取られる。僕は毛布を取り出してきて先生の膝にかけた。ありがとう、と言われてほっとする。僕は先生の役に立てることが何より嬉しかった。
 やがて先生は充分に体が暖まったころ、ゆったりと語りだした。ひとつひとつを噛み締めるように。




 この話は、僕とシーラ、そしてウェローが北の地に辿り着いた時に最初に聞いたんです。まだ街どころか、まともな建物すらなかったここで。
 その夜は星が全くない夜でした。珍しいことに。焚き火の光が笑うようだったのを覚えてます。
 ウェローはその夜に全てを話してくれたわけではありませんでした。折に触れて僕が質問したり、突然ウェローが語りだしたりとかいった、そういったものを繋ぎ合わせた話だと理解してください。

 ウェローがどういった出自であったのかは、結局長いこと一緒にいた僕らですら知りません。何故あんなに美しく力強く、完璧な魔術を持ち得ていたのかも。でも少なくとも、僕らと出会うずっと前の彼がこの北の地にやってきた時には、それはウェローのものでした。
 当時この土地には誰も近寄らなかったといいます。というのも、ここには大きな竜が住んでいたから。黒陽石のような鋼の肉体と、爛々と輝く黄金の瞳を持った竜だったそうです。ちっぽけな人間なんて、何人束になったって倒せそうにない相手。当然、周囲の住人たちは恐れおののき、容易には倒せないと知るや、ケムの森に足を踏み入れることを禁じました。竜は森に入った者達には容赦しませんでしたが、森から出てくることはなかったから。
 そんな危険な森に、ウェローは臆すことなく分けいりました。
 竜はウェローを排除しようとしました。自分の縄張りだったんですから、当然です。だけどウェローは負けなかった。そして勝ちもしなかった。
 ただ、言葉を交わした。
 竜が何に怒り、苦しみ、哀しんでいるかを聞き出そうとしたんです。
 途方もない話です。ちっぽけな人間には、竜を恐ろしい魔物と断じることしか知らない人間には、到底かなわぬことです。でもウェローは竜を憎んでいなかった。恐れてはいなかった。
 会いに行く度に攻撃され、またそれを退けながら、ただひたすらに呼び掛けた。
 やがて竜は少しずつ言葉を発するようになったそうです。相変わらず敵意には満ちていたけれど、そこに憎悪はなかった。ただ警戒心と疑心が見え隠れしていた。
 ある日またウェローが竜の元へ行くと、竜は一層の哀しみと怒りを漂わせていて、かつてないほど荒々しくウェローを攻撃してきました。その口元や爪は血に染まっていて、近くには人のものと思われる肉塊が落ちていた。ウェローはどうにか攻撃を退けたけれど、あまりに強い力だったのでいつも以上の力で対抗する必要があった。飛散した魔力が、竜の背後にあった大きな岩に当たりそうになりました。竜がいつも寄り添っている岩です。竜は、身を呈してその岩を守りました。
 ウェローは聞いたそうです。その岩はなんだと。
 竜が憤懣やるせない様子で答えるには、その岩はかつての妻のなれのはてだと。ずっと昔に人間に殺され、土に還ることもできず、石になったのだと。ずっと寄り添い続けているのだと。
 人間を殺すのは、それを守るためか。ウェローはそう聞きました。
 守るためでもある、と竜は答えました。
 その時、見計らったように雪が降り始めたそうです。竜は体温が非常に高く、鋼の肌に雪が触れるとあっというまに溶けてしまった。けれど岩には白い雪が、冷たく積もっていく。ウェローは呪文を唱え、岩の上空に雪を阻む結界をつくりました。
 竜は驚き、なぜこんなことをするのかと問うた。ウェローがなんて答えたかは分からないけれど、きっと北の雪の冷たさを身に染みて分かっていたからでしょう。
 優しい人でしたから。


 それから劇的に何かが変わったというわけではないようです。相変わらず竜はウェローを邪険にして遠ざけたけれど、殺そうと本気で向かってくることもなかった。時折たどたどしく、会話をしたこともあったようです。僕としては、ウェローがそんなに沢山話していたとは思えないんです。きっと竜の近くで、いつもみたく昼寝したり戯れたりしていたんでしょう。
 森に迷いこんだ人間を、ウェローが外へと案内することもあったようです。森の気配が淀みはじめると、それを払うようなこともしたとか。聖なるものがその場を満たせるように。竜はそんな彼を見て、最初は淀みを生み出す悪しき竜を退治しにきたんだろうと思ったらしいんですが、やがてウェローにそんなつもりはないと悟ったようです。竜が人を殺すことはなくなり、森は落ち着きを取り戻していきました。
 でもやっぱり、めでたしめでたしとはいかなかったんですよね。どうして人は、進んで血を流そうとするんでしょうね。
 竜の被害が収まったせいなのか、森に入る人数がだんだんと増えてきた頃、竜の守る岩がとんでもない力を持ったものだという噂が立ちました。不老不死になれるだとか、一国を手に入れられるだとか。欲深い人間は、どんどん森を穢していきました。ウェローは優れた魔術を使えたけれど、万能ではなかった。防ごうと思っても難しかった。竜の周囲が血で濡れることが、度々起こるようになりました。
 そしていったんは落ち着いたはずの竜の心は、また再び荒みはじめました。ウェローと言葉を交わすことなどせず、近付くものは誰かれ構わず威嚇するようになった。
 欲に目がくらんだ人の妄念は森を取り巻き、竜の気をいっそう乱してしまったそうです。日に日に、竜の黄金の瞳からは正気が消えていきました。
 ウェローはどうにか人を遠ざけようとしたけれど、彼の声に耳を貸す人はいなかった。別に欲に目がくらんだ者たちばかりが相手ではなく、竜に家族を殺されて復讐に燃える者たちもいましたから。ひとりでは、森を守りながら周囲を説得するなんて出来るはずもなかった。
 ついに大勢の人間たちが武器を手に森へ乗り込んでいった時、ウェローは駆け付けるのが遅れてしまった。彼が見たのは、赤黒く染まった森と、その真ん中で唸り声をあげる竜でした。
 殺してくれ、と竜は言ったそうです。
 誉れある使命を奪われて尚生きようと試みても、ただ苦しかっただけだと。誇りを忘れんとひとり生きてみても、ただ哀しかっただけだと。このまま苦しみ続け、哀しみ続けたら、やがて憎しみは世界を蝕む狂気になる。もう苦しいのは嫌だ。哀しいのは嫌だ。ひとりは嫌だ。
 ……ウェローは竜の望みを叶えたそうです。かろうじて残る正気の光が、狂おしく訴えていたから。
 自分でないものになるのが恐ろしい、と。
 竜の体は、妻の体に寄り添うようにして新たな岩となりました。ウェローは特別強固な魔術をかけて、誰の目にもそれが触れられぬようにしました。
 その封印がどこにあるのか、僕は知りません。
 もう誰も、知らないんです。




 語り終えたとき、先生はただじっと暖炉の火を見つめていた。やがて大きく息を吐くと、椅子に深く沈みこんでしまう。
 僕は音を立てないようにして歩み寄り、先生の細い体を毛布で包み込んだ。先生はこうして、『仕事』を終えた夜は、まるで失神するように眠りにつく。そして頻繁にうなされて目が覚め、飛び起きる。もう先生は長いこと、寝台で眠っていなかった。浅い眠りを繰り返し、短時間しか目を閉じていられないために、寝台のがかえって辛いとそう苦笑していた。寝台というものを恐れてさえいた。
 でも僕は思う。
 むしろ先生自身が、深く眠ることを恐れているんじゃないかと。長い時間、自分の意識を手放すことが恐ろしいのではないだろうか。
 自分でないものになるのが恐ろしい。
 それは竜の叫びだったそうだけど、それは果たして竜だけのものだっただろうか。そう思ったとき、僕はすとんと理解した。なんで先生が吹雪の夜、いつも窓の外を見つめているのか。
 きっと先生は、待っているのだ。
 それがよく分かった。竜にとっての大先生がそうだったように、アリオーソ先生も待っているのだ。しらを切り通してそばにいる僕ではなく、もっと他の誰かを。
 それが痛いほど身に染みたから、あの吹雪の夜、先生の部屋から尋常でない冷気と魔力が漏れ出ていたときも、僕は決して、決して扉を開けなかった。どうにか扉の前に座り込んで、必死に手を握りこんでいた。その場所から身を引き剥がすことはどうにも難しそうだったから。
 朝になって部屋に入ると、そこは何もかもが白く凍り付いていた。これ以上ないくらい僕の身体も冷え切っていたはずなのに、僕は無様に震えだした。
 いや、それは寒さのせいばかりではなかったのかもしれない。
 長椅子に倒れこむようにしていた人影は、まさしくアリオーソ先生のものだった。頬に触れると、分かっていたことだが、とても冷たかった。その顔は安堵に緩んでいた。いつも寝るときには、苦しそうに眉間の皺がよっていたのに、見下ろす先生の顔はただひたすら満足そうだった。
 僕は熱くなった目頭を擦って、まだ泣く時じゃないと言い聞かせた。
 この部屋の隅々に、そして先生の遺体に絡みつく魔力の痕跡を拭い去らなくてはならない。僕は大先生のように決して見つからない結界なんて作れないけれど、せめてこのくらいは成し遂げなければならなかった。
 どこか触れたことのある凍りつくような魔力に僕の魔力を絡みつかせ、窓から空へと放つ。高く高く、冷たい北の空へと。
 全てが空へと吸い込まれたあと、僕は振り返って、言った。
 おやすみなさい、先生、と。

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