ある日学校から帰ってくると、居間に猫がいた。
俺はドアノブを握ったまま入り口で棒立ちになる。確か朝出かける時には何もいなかったはずだ。まさか入り込んだのかと戸締まりを確認してみるが、一見問題ない。まさか鍵開けて入り込んでご丁寧にまた閉めたとか? すごいな猫。つぶらな瞳を俺に遠慮なく向けたまま、不法侵入者改め雑種猫は微動だにしない。いっそ俺のが挙動不審だ。あっちのが堂々としてて、まるで家主ですと言わんばかり。ここはやっぱりドアを閉めて見て見ぬふりをするのが賢い選択か? そうしてまたドアを開けたら綺麗さっぱり消えてるかもしれない。よしやってみよう。
バタン。ガチャ。バタン。
一拍置いて。ガチャ。やっぱり閉める。バタン。
「……兄貴、なにしてんの」
不毛な俺の挑戦を断ち切ったのは、帰宅してきた妹だった。制服のスカートの下にジャージを履いて、通学鞄の影などどこにもない。明らかに学校帰りじゃないだろ。おい妹よ、学校をサボるような子に育てた覚えはないぞ。いや、そんな覚えは本当にないが。
「猫がテーブルでかつおぶし食ってるんだ。お前の兄貴はとうとうこの世にないものを見れるようになりました」
「おバカ?」
昔は俺の後ろくっついて回ってたのに、あの可愛さはどこへ消えた。妹は俺を押しのけると悠々と居間へ入っていく。その後ろを従者よろしく続く俺。この家では長男の権力などないに等しい。そういう決まりだ。
「ごめんねにゃんこ、ちゃんとカリカリと猫缶買ってきたからねー」
おいおいそんな可愛い声が出せるなら俺に出せ。いやいやそんなことより。
「お前が引き入れたのか?」
「なんだそのスパイ容疑。帰ってきたらもう家にいたもん」
え、マジで自力で不法侵入できちゃう猫ですか。すごいな猫。空き巣に入れちゃうな猫。ついでに妹の部屋から俺のゲーム回収してきてくれ。
「兄貴、台所の窓あいてたよ」
すいません濡れ衣でした。
「ってなんで餌買ってきてるわけ?」
「お母さんに電話したら飼ってもいいって。責任もつなら好きにしろって」
そこで俺に連絡こないのは何でですかね。いや、皆まで言うまい。言っても発言自体なかったことにされるんだから。
「この子賢いよ、あたしの言うこと分かってるみたい」
「元は外猫だろ? 家で飼うのは無理だろ」
「たぶん大丈夫だよ。ね?」
にゃー。
猫がひとつ鳴いた。まるきり返事してるじゃないか。ってやばい、このままじゃ。
「てなわけで猫砂とか買ってきて。あたし重たいもの持てないし」
「……はい」
この家に長男の正義はない。我が家のヒエラルキーの頂点に立った猫のために、俺はいそいそと買い物にでかけたのだった。
外猫なんてのは家で飼われるのは甚だ不本意だろうと思っていた。数年前、俺がまだ中学生だった頃に猫を飼いたくて調べまくったから多分間違いない。うん多分。ちなみにその時は俺も妹も面倒見きれないだろうと却下された。妹よ、高校生になって一層こき使われてる俺に感謝しろ。いやもう家事楽しいなぁ!
……話を戻そう。
先日我が家に転がりこんできた猫は、悠々自適に過ごしている。問題を起こすでもなく、脱走するでもなく、日がな一日中寝てばかりいる。まぁそれも当然だろう。どうやら飼い猫だったらしく、人慣れしてるし、去勢もばっちりだった。色々と揃えたり病院なんかには金がかかったが、なかなかどうして可愛いと思ってしまう。俺はこう見えて猫好きなので、猫じゃらしなんかで遊んでやろうと思うのだが反応なし。妹には甘えて擦り寄るくせに何この差。餌あげてるのは俺だって分かってんだろうか。
まぁ概ね、俺に対する態度には些かというかかなり疑問を禁じえないが、猫と俺たちはうまくやっていけそうだった。
「やっぱあれだな、まぐろ」
「パクりじゃん。もっと可愛い名前にしようよ。せめてシャケ」
「結局魚じゃねーか」
「えー。じゃぁユウナとかエアリス」
「こいつ雄だぞ。っていうかゲームネタやめっ! ドラクエもテイルズもダメだかんな」
「名前だけでゲーム分かるなんて兄貴も相当だよねー」
「うるさい」
「雄……やっぱソリッド・スネークっしょ」
「お前は人の話を聞いてるのか? どうせならこう、もっと偉人にしよう。信長とかな」
「出たよ日本史オタク。つかスネークは偉人だから!」
「うるさいゲーオタ。じゃぁ本人に決めてもらおうじゃないか! それぞれの名前で呼んで、近寄って来たら決定な」
「いいよ、恨みっこなし!」
俺と妹は各々居間の隅に寄り、次々とソファの上に寝そべる猫に向けて呼び掛ける。思い付く限りの偉人を俺は口にする。信長、秀吉、家康に始まり、義経、信玄、謙信、土方、竜馬、勝海州。ってやばい、半数以上が志半ばで死んでら。妹はと言えば、ひたすらゲームのキャラ名を連呼してる。おいおい、それじゃFFシリーズ制覇しちゃうだろ。
猫はじっと俺たちを見つめたまま微動だにしない。俺も妹もすっかりムキになって、友人の名前まで引っ張り出してきた。でもやっぱり猫は動かない。
やがて妹も俺もネタがつきた。最後はなんだか好物の言い合いみたいになってしまった。疲れきった俺たちを見て何を思ったのか、猫は床に転がっていた本の隣に腰を下ろす。見ろとでもいうように前足でカバーをつついた。俺と妹は顔を見合わせた。おそるおそる書店カバーをめくってみる。
ダ・ヴィンチ・コード。
この猫相当だ。
今更ながら、お猫様たるレオナルド(こう呼ばないと反応しない)をじっくりと眺めてみる。
つぶらな黒い瞳に、おそらく寅柄に分類されるだろうモノトーンの短毛。俺の日々の体調管理によって毛並はつやつや。感謝したまえレオナルド君。普通の猫よろしく魚は大好物で、特に焼いたあじがお好みだ。普段は俺が呼びかけてもじっと見つめてくるだけで愛想のかけらもないのに、買い物にでかけようとする擦り寄ってくる。ああくそ、現金なやつめ。かわいいなちくしょう。
とまぁ、こんな具合に、レオナルドは普通の猫だった。俺に対する冷ややかな態度も含め、実に猫らしい猫だった。そのはずだった。
「あるじどの」
俺はそのとき買い物から帰ってきて、重たい買い物袋をどうにかテーブルの上に置いたところだった。正直結構疲れてて、幻聴だと感じるのに些かの不自然さもなかった。ふと居間を見渡して、そこにレオナルドしかいないことを確認すると、俺は買ったばかりの品を冷蔵庫に納めはじめた。
「あるじどの」
また聞こえた。俺は恐る恐る振り返って、やっぱりレオナルドしかいないのを確認すると今日は早く寝ようと誓った。戦●無双でどうしてもクリアできない面があって、この前から睡眠不足すぎる。安かった豚肉は火を通してから冷凍しないとな。ああ、めんどくさい。
「なぜ無視するのだ、あるじどの」
玉葱も炒って冷凍しとかないと。あー今晩のおかず何にするかな。肉じゃがでも作るか。そろそろじゃがいも消費したいし。
「聞こえているのに、聞こえない振りをするとは如何なものか」
そういや刺身も買ってきたんだった。仕方ないから、我が家のお猫様にもあとで分けてやろう。帰宅部の俺とは違ってバスケ部の妹はあと二時間ほどで帰ってくるから、それまでにご飯用意して風呂もいれて。
「あるじどの、ベルトにパンツ挟まってる」
俺は慌てて身体をひねって、腰のあたりを確かめた。ああよかった、クリーンだ。ってそうじゃねえよ!
「……おまえ、なんで喋ってんの?」
飼い猫がある日喋りだすなんて、そんなラノベでもあるまいに!