俺は正座。やつは足を崩してる。猫が足を崩してるってのは具体的にどういう格好をしてるのか甚だ謎だが、そんな風にしか感じられない。少なくとも俺よりかしこまっている様子はない。だって俺、猫の前に正座してんだよ?
「あるじどのは叱られた子どものようだ」
「言うなよ! ちょ、マジでそゆこと言うな!」
「足を崩されては如何か」
「なんで!? なんで俺、猫に楽に座るようにとか勧められちゃってるの!?」
「あるじどのが」
「あぁああもういい! 喋るな頼むから!」
レオナルドは急に黙った。まさか俺の幻聴だったのかと不安になる。いや、幻聴の方がましなのか? よく分からない。さっきから嫌な汗をかきっぱなしだ。落ち着け、俺。どうする、俺。どうするよ。
深呼吸してみよう。すーはー。すーはー。
「……えっと、マジで喋ってる?」
「今は黙ってるが」
「喋ってんじゃねーか!」
「あるじどのは不可解だ」
「不可解はおまえだあああ!!」
レオナルドはやれやれと言った様子で息をついた。首が小刻に動いたのはあれか、肩でもすくめたのかおい。普段なら芸達者だとでも誉めてやりたいところだが、ますます得体の知れない猫だと思ってしまう。
「……分かった、お前が喋るってのは受け入れよう。原理なんて知りたくもないけど、とりあえず喋るのは認めよう」
「あるじどのに認可されずとも我は喋るが」
「そういう認めるじゃねーよ! あ、いや、そうなのか? いや、とりあえず認知だ認知!」
こんなに調子の狂う奴ははじめてだ。どこをどうしたらこんなに性根の曲がった猫が出来上がるんだ。誰だ保護者は。あ、俺か。
いや、とりあえず落ち着こう。気をとりなおして質問してみることにする。
「……なんでうちを選んだわけ?」
「あるじどのが台所の窓を全開にしてたので」
そういうことじゃねーよ。
「今日急に喋れるようになったとかじゃないよな?」
「あるじどのは喋る猫ははじめてか」
「猫って喋れるもんなの!?」
「さて」
なんだよちくしょう。
「なにが目的だ?」
「ふむ、さしあたっては食物を所望したい」
「そういうことじゃねぇええええ!!」
うちの猫は喋る。
あ、そんな目で見ないでくださいごめんなさい。別に頭がかわいそうなわけじゃなくて、むしろそうだった方が楽かもしれなくて。だけど結局うちのお猫様は喋るわけなんだけど。
「あるじどの、部屋が蒸すので冷房つけていただきたい」
「お前は丁寧なのか図々しいのかどっちだ」
「これほど慎ましい猫もいない」
「自分で言うな!」
レオナルドが言葉を発しはじめてから三日が経った。その間その原因を突き止めることはおろか、またただの猫に戻ることも、夢から覚めることもなかった。
「兄貴、また一人で喋ってんの? うるさいんだけど」
分かったことと言えば、レオナルドの言葉は俺にしか聞こえないってこと。ますます幻聴の線が濃厚になってきた。やばいな俺。
「冷房つけてやってくれ」
「あ、そっか、毛皮だと暑いもんね。よしよし」
「椿、お前、その半分くらい俺にやさしくなってくれ」
「なんか言った?」
クーラーが動き出す。部屋が冷たい空気で満たされていく。レオナルドは、快適そうに冷たい床に寝そべっている。ああいいですね、猫は気楽で。俺の心にも安寧が欲しい。
妹はさっさと部屋に戻ってしまって、居間には喋る猫と俺だけが取り残される。うん、妹のやつは全く夕飯準備を手伝う気持ちはないらしい、案の定。いつものことだけど。
「あるじどのはお疲れか」
「誰のせいだと思ってる」
「はて」
俺は全身で溜め息をついた。兄に優しくない妹と、どこまでもマイペースな変な猫と、そんな共同生活。夕飯の準備のために立ち上がると、レオナルドも合わせて立ち上がった。
「おい、どこ行くんだ」
「椿どののところだ」
「夕飯の時間になったら下りてこいよ〜」
声をかけると、レオナルドは返事の代わりに尻尾を振って寄越した。その後姿を見送ったあと、俺順応性ありすぎだなと気付く。なんだこれ。なんか負けた気分だ。
とりあえず台所に立ち、惰性で夕飯準備を進める。冷蔵庫を見たら昨日の煮物の残りと、漬物があった。なにかを忘れたいときには家事に没頭するに限る。主婦みたいだな、俺。ありあわせで適当に済まそうと考えていると、居間のドアからレオナルドが顔をのぞかせた。
「おい、夕飯はまだだぞ?」
「あるじどの」
「なんだよ」
「今日は椿どのの好物を作ってくれ」
「は? なんだいきなり」
「さっき部屋で泣いていた」
「………」
「辛そうだった」
猫はぽつりという。猫から見ても辛そうだったのか? 猫にしか見せられない辛さだったのか?
妹は辛いことがあっても言わない。俺の前じゃ泣かない。もうそんな子どもじゃない。俺だって言われなきゃ気付かない。そういうもんだ。俺だってそうだ。……ああもう。
「あるじどの、どこへ」
「買出し」
財布を取り出しつつぶっきらぼうにそういうと、レオナルドは頷くような仕草を見せた。瞼をぱちり、瞬きより少しだけ長く目を閉じる。留守番頼むな。家を出る間際にそういうと、黒い尻尾が左右に揺れた。
心得た。そう聞こえた気がした。
喋る、ってこと以外は、いたってレオナルドは普通の猫だ。猫じゃらし大好きだし、魚焼くとうるさいし。なまじ声が聞こえる分、毎日のように刺身を要求されて困る。
ぶっちゃけた話、レオナルドは喋ることと食べることと寝ること以外は何もしない。最初は驚いたが、大きな問題もなく過ごしている。俺の適応力の高さには困るやらありがたいやら。まぁなんというか、少し家の中はにぎやかになって、俺は少し困るけど、少し楽しいわけで。
「お前さ、どうして俺に話しかけたわけ」
ある日俺は聞いてみた。
「というと?」
「別に言葉にしなくてもさ、俺はちゃんと面倒見てたと思うけど。それにいきなり話し出したら放り出されるかも、とか思わなかったのか」
「あるじどのにそういった権限がないのは把握済みである」
うるせえよちくしょう!
「あるじどのは優しい」
「………」
「だからつけこまれる」
一言余計なんだよ、だからさ。
「もしあるじどのが我を嫌いというなら仕方ない」
「え、いや、俺そんなこといってないよ!?」
「あるじどのに遊んでもらうのは楽しかったし、あるじどののアジの焼き加減はいつも絶妙だった」
「なにそのお別れみたいな!? お前いなくなったら椿に殺される!」
「もう椿どのの布団で一緒に寝たり、ミニスカの膝の上でごろごろしたりもできないのだな」
「なんかエロ親父みたいな発言になってるから!!」
「あるじどののベッドに毛玉吐いたり」
「お前そんなことしてたの!?」
「とても残念だ」
「毛玉吐くのが!? お前俺に恨みでもあんの!? ひどい!」
「あるじどの、別れを惜しんでくれるのか」
「この涙はそういうんじゃねぇよ! 分かれよ! ああくそ、この前布団が湿ってたのはそれでかぁあ!」
俺はあらんかぎりの声を張り上げた。けれど叫んでみたところで、レオナルドは頓着した様子はなかった。淡々と、俺を見つめている。ごくり。つばを飲み込む音がやけに大きく響いた。
やつは小さく、それこそ動いたのかどうかすら分からないほど小さくだったので錯覚かもしれないが、とにかくやつは会釈をした。
「……では、あるじどの」
「な、なんだ」
思わずかしこまる俺。どう引きとめようなんて、そんなことを考えて。
「とりあえず今夜は刺身が食べたい」
「結局残るんじゃんかーー!!」
さっきまでのしおらしい態度は見せかけか! 見せかけだな!? 俺が慌ててるの見て楽しんでたんだな!? くそぅ、くそぅ! でも何が一番悔しいって、そんでもやっぱり、俺は準備しちゃうとこだよ! アホか俺。アホだ俺。
ええい、だけど刺身は我慢しろ! 家族ならエンゲル係数も気にしろぃ!!