その桜の樹は、もうずっと長いこと独りだった。
丘の上にぽつんと立ち、晴れの日も雨の日も揺るぎなく。空へ空へと枝を伸ばし、自分はここだと高らかに。春になれば小さな花弁を舞わせて、待ち人にすぐに分かってもらえるようにと、ただそれだけを願った。
昔から、遥か昔から。
誰かをずっと待っているような気がしていた。
長い時間待ちすぎて、それが誰だったかも、いつ来るのかも。すっかり忘れ去ってしまっていたけれど、ただ待ち続けていた。他の全てを忘れても、その古い約束だけはずっと覚えていた。
幾度も春がやってきて、そして過ぎ去った。
薄紅が抜け落ちて新緑が生まれると、これでは待ち人がやってきても見付けてもらえないと焦った。葉が色づき枝が渇れれば、過ぎ去る一瞬すらもどかしくてたまらなかった。
春がやってくる。今度こそ、今度こそやって来てくれるに違いない。
春がやってくる。何度も、何度も春がやってくる。
けれど待ち人は現れない。
桜の樹は待ち続ける。次こそは、次こそはと。
けれど待ち人は現れない。
やがて思い付いたように、樹は花をつけた。春だけでなく、夏も秋も冬も。照りつける日差しの中、駆け抜ける木枯らしの中、舞い落ちる雪の中。薄紅の花を咲かせて、待ち続けた。
ひとは気持ち悪いと口々に言った。きっと何かが憑いてるに違いないと。桜を愛でるひとはなく、いよいよ孤独に待ち続けた。
ただただ、待ち続けた。
そんなある日、ひとりの娘が樹の根元に腰かけた。
娘は泣いていた。
その涙がそっと樹肌に染みるのを、樹はじっと感じていた。哀しみが、ふっと樹の深くまで潜り込む。たぶん樹も、寂しかったから。
いくつかの花を風にさらわせて、娘の元に届ける。
彼女は眩しそうに樹を見上げ、まるで誰かにそうするように微笑った。
それから娘はよく丘の上にやってきた。
最初は泣いていることが多かったけれど、やがて静かに過ごすためにやってくるようになった。樹にそっと耳を押し当てて、目を閉じて。樹の声に耳をすまそうとしているようだった。
娘は時折、ぽつぽつ話をした。日常の小さな笑い話、幼い頃の哀しい話、耳にした美しい話。まるでそこに誰かいるとばかりに、優しく語った。
樹はその度に花を散らして応えた。
彼女がいつ来てもいいように、泣いてやってきても慰められるように、ずっと花を咲かせ続けた。いつしか寂しさは薄れていた。
また何度も季節が過ぎて、樹は少しずつ待ち人のことを想う時を失っていった。
代わりに娘のことを想うようになった。また泣いてはいないだろうか。次はいつ来てくれるだろうか。もっともっと、彼女のために花を。
娘は初めてやってきたその日から、月が一度めぐる間に一度は欠かさずやってきた。その肢体が伸びやかに成長しても、濡れたような瞳と紅をはいたような唇が仄かな甘みを帯びても。
けれどある日、娘はぱたりとこなくなった。
樹はまたひとりになった。
しばらくは花をつけて娘を待っていたが、やがて未だ来ぬ待ち人のことを思い出した。
待っても、どれほど待っても。
待ち人は来ない。
待ち続けるのは辛かった。また再び会えるのならいくらでも待てると思っていたけれど、寂しさは根雪よりも遥かに樹を痛めつけた。途端に花は萎んでしまった。
そしてある月の夜、樹はついに決意した。
花の命と引き替えに、娘に会いに行くことを望んだ。ひとの姿を借りて、娘が好きだと言った花を抱えて。
月だけを頼りに、見下ろすばかりだったひとの街を歩く。娘の屋敷は大きな樫の門と、庭先にまた大きな梅の樹があるという。何軒も歩き回って、ようやくそれらしい場所にたどり着く。梅の樹に聞けば、その家の娘はしばらく臥せっているとのことだった。
慣れぬひとの姿で塀を越え、広い庭を進む。娘の寝所まできたところで、今の姿に躊躇し、結局花だけを縁側にともして帰った。
それから来る日も来る日も、夜毎花を届けに通った。
蒸すような暑さの夜も、月がひときわ輝く夜も、冷たい風が肺を刺す夜も。
言葉は交わさず、姿も見せず、ただ花だけを縁側に置く。元より人ならざる身なれば、言の葉など交わすべくもない。けれど確かに娘はそこにいるのだと感じるだけで、寂しさは慰められた。
ひとの姿を取ることは樹を著しく消耗させたけれど、娘に捧げる花だけは決して枯れなかった。かりそめの身体は痩せ細り、輪郭は一層ぼやけた。それでも尚、娘の下へ花を届けた。
けれどある夜、見てしまった。
娘が見知らぬ男とにこやかに話しているのを。丘の上では決して見せぬような、子供のように柔らかい笑顔だった。
寂しさよりも遥かに狂暴な冷たさが、桜の花を襲う。
手にしていた花びらのいくつかが、音もなく地に眠った。彼女が泣いたとき、つらいとき、側にいたのは己ではなかったか。彼女のために咲かせた花は、まだここにあるというのに!
憎い男は屈託なく笑い、愛しい娘は照れたように目を伏せる。
ああ、こんな悲しみを抱えるくらいなら、ずっとずっと待ち続けて寂しさに死んだ方がましだった。たとえ待ち人が来ていなくても、まだあそこには希望があったのに。彼女を想うときはいつも、優しさとあたたかさばかりが去来していたのに。
悲しい。寂しい。憎い。けれど、愛しい。
これは古い約束を破った罰だろうか。待ち人を信じきれず、逃げ出した愚かさの代償だろうか。もう一年以上花をつけていない。きっと待ち人はやってきても分からなかったに違いない。命を削って咲かせた花は、すべてすべて彼女のために。
月が見守るなか、娘と笑いあっていた男はゆっくりときびすを返して立ち去った。娘は縁側に座って、男の消えた先を見つめている。そうかと思ったら寝所にとって返し、何かを手に戻ってきた。
月の下に、薄紅の花をかざす。
壊れやすいものを扱うように、そっと持ち上げて香りをかぐ。月の光に、薄紅の色は少し冷たくうつった。けれど娘はその色彩をいとおしそうに見つめる。
贈ったであろう誰かに想いをはせているのか、それとも。
知らず片足を踏み出し、さきほど散らせた花が小さな悲鳴をあげた。
娘がはっと振り向いた。
今、娘には何が見えているのだろう。季節外れの桜を抱えた、白くぼやけた幽鬼だろうか。娘の目は少しの恐怖をたたえながらも、薄紅の色彩に釘つけだった。やがて確かめるように顔をじっと見つめてくる。
誰のものでもない顔。ひとの形すらしていればよかったから、輪郭は朧月よりも曖昧だろう。もはや、ひとの姿を保つのすら今は辛かった。
風の声すら今は静かだ。
意を決して足を前に踏み出しても、娘は逃げなかった。手を伸ばせば届く距離まで近付いて、ただ二対の光ばかりが絡み合う。
そっと花を差し出すと、娘はゆっくり受け取って。
そして、微笑った。
初めて見たときと寸分違わぬ笑顔だった。それを見た刹那、寂しさはあっさりと風にさらわれてしまった。まるで桜の散り際のように。花びらが高く高く空へと運ばれ、慰めるような薫香が胸を満たす。
ああ、彼女は確かに己に向けて笑ったのだ。
娘はそっと何かを言いかけた。白い指先が、月光に浮かび上がる。つられるように、幻のような手を伸ばす。触れ合いたいと思った。けれど一層強い風が吹き、花が散った。
かりそめの姿は、花に消えた。
その場に残されたのは娘と、美しく咲き乱れる桜花だけだった。
長年、季節問わず花を咲かせ続けていた桜があった。
あやかし憑きとすら称された丘の上の大樹は不可解で、そしてとても美しい花を咲かせた。
けれどあるとき、樹はぱたりと花をつけなくなった。春にさえ、その色彩を見ることはなかった。人々は何かの悪い予兆ではないかと噂しあった。桜は死んでしまったかのように沈黙していた。
そして幾度か季節を巡ったある月の夜、樹は息を吹き返したように、たった一夜だけ花をつけた。実に見事な夜桜だった。
その根元には、美しい娘が寄りそうようにして息を引き取っていたという。