花をつけるとき、また来るわ。
 彼女は立ち尽くす私に向かってそう言った。臆病な私は、本当に会えるのかと聞き返せなかった。ただ祈るように沈黙を守った。
 また来るわ。必ず来るから。
 待っていてと、彼女は言う。
 それは呪だ。
 私の心を綿でくるむようでいて締め付ける、柔らかな呪の言葉。
 ついていきたい。引き留めたい。けれど私の声は氷ついてしまったかのように無力だった。そして彼女は風と共に去っていく。
 桜はもう散りゆくのみで、蕾をつけた頃にやってくる彼女はいつも枝が葉桜に覆われるのを見ずして旅立つ。彼女はそういう一族で、私は地に深く縛られた存在だった。鳥のように軽やかな彼女と、地に沈んでいるような私。対極に位置する二人を結び付けるのは、桜の花だった。
 恋しいひとの後ろ姿を見送りながら、早く花をと願う。いっそ咲き続ければいい。さすれば花の散り際に去っていく彼女も、地に根を下ろすだろう。私と共にいてくれるに違いない。半ば本気でそう思っていた。だからといって何ができるわけではなかったが。
 葉が枝を埋めて、そして散って、やがて雪が化粧する。その一連を見つめながら、私は待ち続けた。
 約束通り、彼女はやってきた。
 私はきちんと知っていた。彼女がやってくると。でもそれでも不信は拭いがたく。待ち続ける時間に狂いそうになった。あらゆるものが寝静まる深夜、彼女のことを考えると少しだけ悲しみは薄らいだ。けれど寂しさは闇のように迫りくるばかりで、狂おしい。
 そんな彼女は毎度変わらぬ笑顔で私に歩み寄る。その瞬間に私は、彼女が私がどんな思いでいたのかをみじんも知らぬ様であるにも関わらず、あっさりと降伏してしまうのだ。花の命は短く、めぶくのがひたすら待ち通しかったというのに、彼女がやって来れば花開くのが恐ろしくてならなかった。だから会う時間だけを繋ぎあわせたくて仕方なかった。


 彼女は芸を売る仕事をしていた。歌や舞などだ。桜吹雪のなか舞う彼女は、さながら天女のようであった。私が好きだったのはとりわけ笛の音で、隣に座って吹いてくれるのが好ましかった。本来は笛は男が手にするものだが、そんなもの私は気にしなかったし、彼女も同様だった。優しく切ない音色は、私の心を優しくくすぐった。
 綺麗な音色だから、好きなのよ。
 彼女はぽつりと言って、私はそれに黙って応える。そういったやりとりを殊更好んだ。彼女は美しく奔放で、ある種の支配欲じみた劣情を煽るような何かがあって、言い寄ってくる男はいくらでもいた。女たちは遠巻きに見つめ、なにかこそこそと囁きあっていた。何度か私が隣にいるにも関わらず、見知らぬ男が構わず声をかけてきたこともあった。けれどその全てを彼女は冷たくあしらった。その度に隣に立てる幸福に酔いしれたものだ。少なくとも彼女は私を拒絶しない。それが誇らしかった。
 彼女の全てを焼き付けようと私はいつだって必死だった。彼女についていけない私は、せめて愛しい全てを胸に納めようと思った。寂しくなったときに取り出して、長すぎる不在を慰めるために。
 今度は長い旅になると思うわ。
 彼女が年端もいかぬ少女であるうちから繰り返されてきた桜の逢瀬は、しかしあるとき綻びを見せた。私はいつだって思い返すことができた。ひとり佇む私に笑いかけてきた昔日の彼女を。
 長い旅?
 このときも私は問いかえす勇気もなく、ただ立ち尽くした。そんな私に少し寂しげな目を向けたあと、けれどもはっきりと、一年以上かかるわと彼女はそう言った。
 どんな言葉を言えばよかったのだろう。どんな言葉を彼女は待っていたのだろう。


 季節がめぐり、何度も咲いて散っていく花を見送った。今度こそは来てくれるのではと、ただそればかりを思った。
 会いたい心がどうにも暴れだして、あわや恨みにさえ転じかけたこともあった。けれど私は、自分でさえも驚くほどの強靭さでもって精神を立て直した。彼女を待ち続けるということの辛さに耐えきれるほど老いても、若くもなかった。
 ただひたすらに、彼女の笑顔がもう一度見たいだけだった。
 辛いときは夕日を見て、彼女を思い出した。彼女の髪には少し赤みが差していて、日の下に立つとまるで火を抱いているようだったのを思い出していた。変わった色だったが、私はとても好きだった。
 やがて彼女に言い寄っていた男たちは嫁を貰い、子を生した。彼女を妬んでいた女たちも次々と嫁いでいった。
 私はひとりだった。
 きっと誰も彼も、私を置いて彼女を忘れてしまったに違いない。
 そのことに一抹の寂しさと不安を抱きつつも、不思議と彼女を独占できたような心地がしていた。けれど彼女はこんなぎらついた気持ちなど好みはしないだろう。
 彼女が私を隣にいることを許したのは、ひとえに私の朴訥さゆえだった。静かに過ごすために私に会いに来ていたのだ。だから私には待つ以外の選択肢はない。彼女が望んだように、彼女を常に柔らかく迎える存在でなければ。
 彼女が再び会いにきてくれるというのなら、彼女への想い以外の全てを地に沈めてみせよう。
 私は待った。ただ待った。


 綺麗な桜ね。
 ある日、ひとりの少女が私に話しかけてきた。眩しそうに目を細め、少女は笑った。魂が震えた気がした。私の待ち人たる彼女とよく似た若い面差しが、私を深く打ちのめした。少女の髪が日の光に透けて、夕暮れを閉じ込めたような色彩を放っていた。
 待っていた。
 あなたをずっと前から待っていた。
 けれどあなたはやってこない。私のことを忘れてしまったのだろうか。約束を守ってはくれないのだろうか。私を置いていってしまったのだろうか。
 いや、そんなはずはない。
 彼女が約束を違えるなどありえない。そんなこと、ありはしない。
 ほんとに、とっても立派な桜ね。
 少女は言った。
 ただ、立ち尽くす私に向かって。おまえ、とても立派ねと。確かに笑顔が向けられていた。
 私は、……私は。

 私は桜であったのか。
 私は人であったのか。

 伸ばそうとした腕はみじんも動かず、歩む足は地に根ざしたままでどこへも行けない。彼女を待つうちにこの身が桜に変じたのか、はたまた人であったことなどなかったのだろうか。もはや私には分からなかった。それを知るのは彼女だけだった。未だ現れぬ彼女だけ。
 ああそうだ、長い旅になるといっていた。
 私は待とう。
 ただ彼女のことを、ひたすらに待ち続けよう。長い旅が終われば彼女はやってきてくれるから、それまで。ひたすらに待とう。
 花に、死するときまで。


「契るらむ」
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