一人の少女が、軽やかな足取りで丘の上を行く。
空は清々しいほど晴れていて、周囲の木々は薄紅に染まっていた。風は少し肌寒いという程度で、もう厚着はしなくて良さそうだった。
少女が丘を上りきると、一本の樹が見えてきた。
異変に、首を傾げる。
その樹は彼女の一族の間では「常世桜」と呼ばれていて、季節問わず咲き続けることで有名だった。そのあまりの美しさに、この世ならざる香りを感じとったことも、その名の由来だろう。物心ついた頃から話に聞いていて、いつの季節でも咲き誇る花に無性に惹かれたものだ。いつかその花を見るのだと、そう思っていたのに。けれど今、その樹に花の影はなかった。
樹は沈黙していた。
話によると、時々話しかけてくるように花が散ることもあったそうだけれど、今はその花がなかった。季節は春で、周囲に薄紅の花を咲かせている樹は複数ある。その樹だけに花がない。嘘だったのだろうか。でも嘘を言いそうにもない大人が話してくれたこともあるのに。
幹に耳を押し当てて、目を閉じてみる。
けれど何かが聞こえるはずもなく、樹は死んでしまったように思われた。
死んじゃったの、と呟く。
花をつける必要がなくなってしまったのだろうか。それとも花をつけるだけの力を無くしてしまったのだろうか。
少女は樹を見つめる。
ひとところに止まらずに旅を続ける一族のなかにあって、ここは誰もが一度は訪れる場所だった。少なくともほんの十数年前までは花は咲き乱れていたことは確かなはずなのに、一体何があったのだろう。
少女には考えてもわからない。
しばらく意味もなく樹の周りをぐるりと回ったあと、腰掛けてみる。けれどやはり何もない。落ち込んだ気分を持ち直そうと、少女は懐から笛を取り出した。どうしようもないことを考えても仕方ない。笛でも吹いたほうが、気持ちは慰められる。
ゆったりと、音を高く運ぶ。舞も嫌いじゃないけれど、笛の方がどうにも格好よく見えて、わがままを言って教えてもらった曲をたどる。
そうやって気の向くままに吹いていると、丘の下から人がやってくるのが見えた。人影は少し小さく、少女とそう変わらないように思われた。少女は吹くのをやめると、じっと見入った。やがてそれが少年だと分かると、相手も少女に気付いたようだった。
「だれ」
少年は怪訝と少しの恐怖を浮かべたまま、ぶっきらぼうに問うた。
「あなたこそだれよ」
対して少女は気の強さそのままに言い放った。
その返答は当然ながら少年のお気には召さなかったようだ。口を尖らせ、幼さを具現化したような態度をとる。
「よそ者がこんなところで何してるんだ」
「笛を吹いてただけよ」
持ち上げてみせると、少年はちらりと興味が引かれたようなそぶりを見せたが、慌てて打ち消す。見るからにいいとこの子息といったところだ。
「ここは、ぼ……わたしの父上の土地だぞ。勝手になにしてる」
案の定、ここらの地主の子であるらしい。態度から傲慢さが滲み出ている。
旅に生き、同世代の子どもよりも世慣れている少女はそんな彼の態度を気にも留めない。旅芸人の子どもというだけで見下されるのには慣れっこだ。
「でも入っちゃいけないなんて、そんな決まり聞かなかったわ」
「ここに住む人間ならみんな知ってる」
「あら、あたしは生憎とここには住んでないから知らなかったわ」
少女はしらっと言ってのける。少年は眉根をきつく寄せた。
彼が文句を更に言い募ろうとしたところで、彼女はおもむろに問いかけた。
「あなたは知ってる?」
「なにが」
「この桜、どうして花をつけなくなったの?」
樹を見上げながらの問いに、少年は怪訝そうに眉を寄せた。いきなりこんな問いをされるとは思ってなのかったのだろう。
「なんでそんなの気にするんだ」
「だってすごく綺麗な桜だって聞いてたんだもの。やっと見れると思ったのに。来年とかになったら咲いてくれるかな」
「無理だよ」
少女の希望を斬り捨てるように、少年の冷たい声が響く。
「この樹、斬られるんだ」
「なんで!?」
「父上が……」
そこで彼は言いよどんだ。
まるで何かを恐れるかのように、桜の樹を上目遣いに見つめて。それを見て、彼女は問いを変えることにした。
「どうして斬ってしまうの」
「……父上は、この桜が嫌いだから」
「どうして」
少年はひとつ息を吐く。何かを振り払うかのように。
「直接聞いたわけじゃないけど、昔、僕が生まれる前、叔母上が桜にとりつかれて死んだんだって……病気の身体で屋敷を抜け出して、その樹の根元で死んでたって」
少女のちょうど腰を下ろしてるあたりをじっと見られ、少女はぎょっと目を見開いた。咄嗟に腰を浮かしかけるが、取り乱してるところを見せるのは何だか嫌だったので、どうにか繕う。なんでもない風を装って問いかけた。
「……でも、どうして今になって?」
「桜が咲いてた頃に何度も斬ろうとして、その度に死人が出たとか……それ以来樹に近付かないのが暗黙の了解になって」
「今になって桜が咲かなくなったから、斬れるかもって?」
少年は小さく頷いた。
彼はもしかしたらここに来るのが好きだったのかもしれないと、そう思った。
少女は樹を見上げ、小さく問いかける。
「斬られちゃうの?」
もう、花をつけてはくれないの。
それはとても残念なような気がした。一族の中でずっと語り継がれていた、桜の花。目にされることなく、いつか忘れられてしまう。繰り返されてきた約束が、消えてしまうような気がした。
「……なんでお前がそんな顔するんだ」
「だって悲しいもの。悲しいと思うのはおかしい?」
「でも桜が咲いてるところ、見たことないだろ」
「綺麗だった?」
「え……」
「桜、綺麗だった?」
純粋に問いかけてくる瞳に、やがて少年は小さく頷いた。
そっかぁと少女は呟く。
眩しそうに目を細め、樹を見つめる。どうしてか懐かしく感じるだなんて、目の前の少年に言ってみても分からないのだろう。旅に生きる彼女の、ありはしない故郷のようなものだと。そう言ってみても、きっと分からないと言われてしまうのだろう。
それは仕方ない。それが普通だ。
けれどその時、幻を見た。舞い散る桜吹雪の、幻影。視界を埋め尽くすほどの、薄紅色。
少女は、はっと目を見開く。そのときにはもう桜の影はどこにもなかった。けれど、確かに見た。桜の香りが胸を深く満たした。少年も目をぱちくりとさせていて、きっと彼も見たのだと思った。
見たのかと互いに視線だけで問いあう。
やがてどちらともなく、樹を見上げた。春だというのに花を知らぬ樹を。
少女は誘われるように笛を構える。樹が聞きたいと言った気がしたからだ。数日もすれば、この桜は斬られてしまう。もしかしたらまた何事もなくここに立っているのかもしれないが、花をつけない桜にそこまでの生きる意志があるんだろうか。
「斬られちゃうと思う?」
笛を奏で終わったあと、少女は聞いてみた。妙に確信に満ちた様子で、少年は応える。風が枝を揺らして、淋しい音を響かせた。
「たぶん」
「疲れちゃったのかな」
「……きっと、待つ必要がなくなったんだ」
「え?」
思わず問い返した彼女に返るのは、不機嫌そうになんでもないと言う声。少女に分かることがあって、少年に分かることがある。それはきっと近しいけれど、同じではないもので。
いつの間にか、陽は傾いていた。
「もう行かなくちゃ」
そう言って立ち上がる少女に、少年は戸惑ったような目を向けてきた。
彼女にはその視線に少し覚えがある。
旅芸人の子と仲良くしたいけれど、親の目が気になる子どもによく見られる。少しの自尊心と、恐怖と戦う目。近付くのにあと少しの後押しを求めているような、そんな目。だから、少女は言う。
じゃあねと、手を小さく振ったあとで。
「あたしの笛も綺麗だったでしょ?」
「……まあまあだ」
小さく呟かれた言葉に、遠慮ない笑い声を響かせて。
それからしばらくして、少女は一族と共に西へ旅立っていった。
そして結局、桜はあっさりと斬られてしまった。
祟りを恐れていた村の面々も、斬れてしまえば態度がでかくなるばかりで。花をつけなくなってから実際に斬ろうと腰をあげるまで十数年かかったというのに。数日もすれば、あの丘に桜があったことすら忘れてしまうように思われた。切り株さえも根こそぎ取り払われ、かすかに土の色が変わってる部分だけが名残といえば名残だった。
少年はひとり、かつて桜があった場所に立つ。
そこだけ土が柔らかかった。
おもむろに屈みこみ、穴を掘り始める。先日森の中を歩き回って、具合のよさそうな苗を見つけたから、植えようと思ったためだ。それが桜であるかは分からない。けれどなんとなく、何もないままにしておくのは忍びなかった。
斬られてしまった桜は、本当に不思議な樹だった。
近くの寺に供養してもらったのだが、何かと弱いとされる桜の樹にしては珍しく、虫もついていなかった。老いたから花をつけなくなったわけではないと、そこの坊主が言っていた。そして死に瀕していたから斬られたわけではない、と。
きっとこの丘の上に立ち続け、花を咲かせ続ける必要がなくなった。
そういうことだと、少年は思っていた。
「これ、やる」
少女が出発する前日、そう言って、桜から切り出した一振りの笛を渡したのを思い出す。使用人に手先の器用なやつがいて、その男に無理を言って数日で作らせたものだった。もう常世桜のない丘の上で、旅の供にと、渡した。
雑な作りだが、少女は喜んだようだった。
その代わりにと、少女は持っていた笛をくれた。吹き方なんて知らないと言ってみるが、練習すればいいじゃないと一蹴された。
「また会いに来てあげる」
「いらない」
「そんなこといって、本当は淋しいんでしょ」
「そんなわけないだろ!」
怒鳴る少年を意に介した様子もなく、少女は笑う。
待っていてと、笑う。
だから少年は苗を植えた。この丘の上に、かつての桜と同じ場所に。この樹はやがて大きく成長して、旅をする彼女の目にとまるだろう。もしかしたら花を咲かせるかもしれない。
薄紅の、優しい色の花を。