何より大切にしていたものがなくなってしまった。
 祖父が去った扉は沈黙している。もう、明日からあの扉をくぐる人はいなくなる。自分以外は誰も。
 カウンター席に腰掛けながら、ぼんやりと店内を見回す。つい数時間前まで客で賑わっていたとは、とても思えない。ふいに明日の仕込みのことを思い出して、立ち上がる。
 でも無意味だと気付いて、動けなくなった。座りなおす気にもなれなかった。
 店内は静まりかえっている。
 いつものように一日の反省だとか新しいアイディアを書きとめるとか、そんなことをする気がおきない。する必要もない。
 駆け抜けるようだった日々を思い出して、急に胸がつまった。鍵をじっと見つめているじいさん。怒鳴る父親と母親。じいさんが珊瑚礁の扉を開けたときの表情。コーヒーの香り。来店を告げるベル。やってきたあいつ。失敗したあいつの顔。じいさんに褒められた時の喜びよう。ハンドクリームを隠れて塗るあいつ。試作品デザートを頬張って幸せそうなバカ面。
 まだそこにあるのに、はっきりと思い浮かべることができるのに、明日からここが静まりかえるなんて嘘だろう?
 泡となって消えるなんて、おとぎ話の中だけじゃないのかよ。
 思わず携帯に手を伸ばす。
 他の高校生に比べて圧倒的に少ない登録件数から、目当ての番号を呼び出すなんて容易かった。目をつぶっててもその画面を出せる自信があった。それほど頻繁にかける番号だった。でも、発信ボタンが押せない。指が動かない。
 きっと寝てる。
 クリスマスパーティではしゃぎすぎて、今頃ぐっすり眠ってるに違いない。そう思う。
 けれど今度は、クリアボタンが押せない。
 なにやってんだ、俺。
 閉じようとする。でも叶わなかった。電子音がけたたましく着信を告げた。狙ったのか。思わず呟く。
 指が動く。
「…もしもし」
「もしもし、サエキ? お店終わった?」
 終わった。そう言おうとして、喉がからからに渇いてることに気付いた。終わりって表現なんて口に出せなかった。
「サエキ?」
「なんでもない」
「どしたの、サエキ?」
 ああもう、何回も名前呼ぶなっつの。おまえはオウムか。
「…おまえ、クリスマスは」
「ああうん、とっくに終わったんだけど、眠れなかったから月見てた」
 月?
 言われれば灯の消えた店内に月光がさしている。
 あいつは何も言わない。
 俺も何も言わない。
 きっとぼんやり口をあけて月を見てるんだ。窓際に寄った。
「…店……」
「うん?」
「今日で、閉店になった」
「うそ」
「嘘言ってどうすんだよ」
「だって…」
「じいさんさ、きっと俺がいっぱいいっぱいなの気付いてたんだ」
「そんな、でも…」
「頼むよ。何も言うな」
 思わず遮る。今優しい言葉なんて聞いたら、崩れてしまう。精一杯の俺の強がり。
 あいつは黙りこんだ。でも受話器の向こうにいる。
 無性に会いたかった。
「…ごめん」
「ううん」
「もう寝るだろ? 切るよ」
「大丈夫だよ」
 月を見てるから、なんてあいつは言う。俺は電話を切れなかった。
「……なぁ、雪綺麗か」
「うん。きらきらしてて、昼間見た雪とは全然違う」
「何言ってんだよ、夜なんだから当たり前だろ」
「相変わらずひねてるなぁ」
 呆れたように小さく漏れる笑い声。ああ、おまえがここにいたらいいのに。
 そのまま、夜明けまで話した。切ろうとする俺にもう眠いの、なんて憎まれ口をたたいて。
 助けてくれなんて、俺自身言葉にならないことをきっとあいつは分かってた。そう思う。




 おまえが、好きなんだ。誰にも渡したくない。
 そう言えたらきっと少しは呼吸はしやすくなるだろうか。そんなことを考えて、考えすぎて動けずにいる。
 でも目が覚めて、一番に考えるのはあいつのことだ。
 サエキはめっきり主婦だよね。余った俺お手製のデザートを頬張りながら言うあいつ。
 主婦とかいうな。
 人魚の旦那さんってさ、魚人かな。真剣に首を傾げるあいつ。
 アホだろ。
 サエキから意地と皮肉をとったら何が残るの。そんなことを言い放ってくれたあいつ。
 そうだよな。
 意地でも無茶でもいい。人魚が海に帰るのを見てるだけなんて、どうしようもない馬鹿じゃないか。
 珊瑚礁からいつも臨めた海は、この部屋からは見れない。


 魚人なんかに渡してたまるかっての。





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