01

 呪文というのは、詩篇に似ている。
 そして唱える者によってその響きはいかようにも変わる。分かりやすい呪文という形態をとるのは魔女と魔術師だが、冒険者の歌も神官の祈りも巫女の舞も、魔力を導くものであるのに変わりはない。
 雲ひとつない青空の下、呟かれているのは一見意味をなさない言葉の羅列。
 抑揚のない響きが空に向かって放たれ、そこに水が応えるように現れた。歌とはかけはなれた音なのに、水は喜ぶように舞う。呟きに合わせて形を変え、その度に光が違う顔を見せた。まるで会話をしているかのよう。
 呪文を紡ぐ男は屋根に寝そべったまま、魔術書を見るでもなくそらんじている。否、正しくは書物を日除け代わりに目元に被せ、ただ呟く。
 彼にとっては大気から水を生み出すのも操るのも、戯れに過ぎなかった。
 幼い頃から繰り返してきた、ただの戯れ。
 突如水が笑ったように弾け、細かい水滴が降り注いだ。男はむっと日除けを持ち上げた。
「ユーゲン!」
 それとほぼ同時に、鈴のような声音が響いた。
 うんざりしたように彼はその青みがかった灰色の瞳を細める。帽子を目深に被りなおして、寝たふりを決めこんだ。しかし深紅のローブに身を包んだ魔女は、頓着した様子もなく梯を上ってくる。
「やっぱりここにいたのね」
 呆れたような声は少しの笑いを含んでいる。あなたを探すなら高いところねと。魔術師は答えない。けれど彼女はめげた様子もなく、慣れた様子で呼び掛ける。ねぇユーゲン、起きなさいったら。
 やがて何度か呼び掛けられたのち、観念したようにユーゲンはいらえを返した。
「……なんですか」
「今日なんの日か忘れたわけじゃないでしょ」
「覚えてない」
 明らかに嘘だった。分かりやすいそれを華麗に流して、ユリアナ・ケイブは薄く紅をはいた唇を動かす。
 その彩りに魔術師は気付かない。
「また遊んでたの?」
「……話してただけですよ」
「ねぇ、いつもどんな話をしてるの」
「別に、つまらないことです」
 一向に要領を得ない返答に痺れをきらし、彼女は帽子をひったくった。
「ユーゲン・シャンルン、あなたが精霊と話せるのは誰もが知ることだけど、これからは人ともきちんと話さなくてはいけなくてよ」
 ちゃんと目を合わせてね、と付け加える。
 ユーゲンは眩しさに顔をしかめつつ、ちらりと魔女に目をやった。
「ユリアナ、まるで君は母親のようですね」
「誰がそうさせてると思ってるの?」
 しっかりしてちょうだい、と顎を反らす。ユリアナは昔から口煩い。二人は従兄弟の間柄で、彼女は何かにつけ無頓着なユーゲンに口を出さずにはいられない困った性質の持ち主だった。実に不幸なことに。
「それとその喋りかた」
「問題でも?」
「大ありよ、ユーゲン。私に対してまでそんな口調だなんて、馬鹿にしてるの?」
 片方の眉だけを器用に上げて、ユリアナは不満だと訴えた。紫暗の瞳が太陽に輝いている。
 ユーゲンとしては二年前に成人を迎えた彼女に敬意を表してのことだったが、お気に召さないらしい。幼い頃は常にそばにいた相手だったから、尚更なのだろう。
「昔のように気さくに話してちょうだい」
「仰せのままに」
「ユーゲン!」
 即座にあがった非難の声に、けれども魔術師は肩をすくめるだけ。ユリアナは大きく溜め息をついた。
 まだ何か言いたそうに口を動かしたが、彼女は思い直したように首を振る。
「……もう、こんなことを話すためにきたんじゃないのよ。行くわよ、ユーゲン」
「どこに」
「ねぇ、それってわざとなの? 今日はあなたの入団の宴でしょ!」
 忘れたなんて言わせないわよと睨みをきかせれば、彼はようやく半身を起こした。
「別に僕が行かなくてもいいでしょう」
「あなた主役よ? なにいってるの」
「お披露目なら散々しましたよ」
「貴族相手にでしょ。それはシャンルン家の事情じゃない。今日は内輪の親睦会!」
「兄上がうまくやってくれないかなぁ」
「もう、レーゼンの白髪を増やすようなことばっか言わないの」
 ユリアナは大げさに肩を落としてみせる。昔は容赦なく平手打ちが飛んできたものだから、成長したんだなとユーゲンはひとりごちた。口煩いのはどうやら磨きがかかってしまったようだが。
「あなた明日から名実共に騎士団の仲間入りするのよ? そんなことでどうするの」
 幾人かの団員とは若干の面識があるとはいえ、やはり顔見せは大事だ。分からぬわけではないだろうに、ユーゲンはぼんやりと座ったまま。
「世界を救うのよ」
 分かってるの、と問いかけると彼はようやく本を片付けだした。ユリアナは奪った帽子を手渡す。
「わかってる」
 ぽつりと返された答えは、どこか乾いていた。




「おぉ、ユーゲン! 遅かったな、こっちだ!」
 ユリアナに引きずられて酒場に入るなり、一際大きな声がユーゲンを出迎えた。
 兄のレーゼンだった。
 手加減を知らぬ兄にばしりと背中を叩かれて、少しよろめく。魔術師の腕力などたかが知れているが、地味に痛い。
「遅れてすいませんでした」
 どうにか呼吸を整え、ユーゲンがぺこりと頭を下げると、おおらかな返答がそこここであがる。
「気にすることはない」
「今みんな揃ったばかりなのよ」
「そう遠慮せずともよいぞ!」
 ユーゲン自身はさほど面識はなかったが、シャンルン家は無駄に顔が広い。レーゼンの明るい人柄も影響しているのだろう。実に気安く声をかけられる。
 促されるままテーブルにつく。腰掛ける前にぐるりと見渡してから、ユーゲンは改めて頭を下げた。
「ユーゲン・シャンルンです。どうぞよろしくお願いします」
 無難な口上だったが、騎士団の面々は満足したようだ。拍手と、知ってるぞーなどと叫ぶ声があがる。そもそもが狭い騎士団事情であるし、何よりこういった宴にかこつけて騒ぎたいだけだ。戦う日々に娯楽はあまりに少ない。
 レーゼンもユリアナも、間に挟んだ新人本人などよりよほど嬉しそうな顔をしていた。
「それでは」
 ユーゲンの対角線上にいた黒い鎧の男がすっと立ち上がった。彼が二代目団長だった。兜はとられ、年を重ねた威厳のある表情がのぞく。手には杯が握られていた。
「ユーゲン・シャンルン、セルシウス騎士団への入団を歓迎しよう」
 魔術師に杯が向けられる。次いで、近くに座っていたニンジャにも同様に。
「今までの戦いの日々に惜しみない称賛と感謝を。カヤ、達者で」
 団長の一連の動作に皆が続く。ユーゲンも肘でこづかれ、杯をもつ。
「新たな仲間と古き友の門出に、乾杯」
「かんぱーい!」
 掛け声と同時に、杯が鳴った。
 あまり力の加減というものがされなかったせいか、高い音が鳴る度に酒が飛び散る。けれど誰も気にしない。瞬時にテーブルは騒がしくなり、どんどん酒も食事も消費されていく。仲間が団を去る悲しみはあるが、幾度も繰り返されてきたことだ。悲しみ涙を流すことよりも、ただ今は笑って騒ぐ方がいい。多くの団員がそう思っているようだった。
 ユーゲンはといえば、杯に口をつけた次の瞬間には新たな酒を注がれ、その宴の勢いに気をとられる暇すらなかった。さっそく帰りたくなってくる。
 ある程度酒がいきわたった頃、幾人かがユーゲンの側に寄ってきた。正しくはレーゼンの側に。
「あなたがレーゼンの自慢の弟ね」
 あまり似てないのね、と声が続く。悪気はないし、言われ慣れているから気にもならない。
 事実、レーゼンが深緑色の瞳と髪であるのに対し、ユーゲンのそれはくすんだ灰色だ。青みがかっているとはいえ、その輝きは比べるべくもなかった。
 本人がそうですねとしか返さない横から、レーゼンが首を突っ込む。
「ユーゲンは祖父に似てるんだ」
「隔世遺伝ってやつ?」
 こういう場でユーゲンが話すことはあまりない。本人が黙っていても兄が勝手に話を進めるからだ。
 貴族のお披露目でも、ユーゲンは決まりきったことしか口にしなかった。ありがとうございます。頑張ります、精進します。シャンルン家の名に恥じぬよう。
「そうそう、祖父に似て魔術の腕もぴかいちさ! 僕を越える逸材なんだ!」
 あまり話すのが好きじゃないというか面倒なユーゲンにとってみれば、レーゼンが場を盛り上げてくれるのはありがたい。だがそれ以上に事を大きくするところは困りものだったが。
「いいの?」
 紫暗の瞳を細めながらユリアナが聞いてきたが、弟は肩をすくめるばかり。兄のあれは一種の病気だ。
 そう思うことにしている。
 ユーゲンはちびちびと酒を舐めつつ、出来上がっていく団員たちを遠巻きに見つめる。酒が弱いと知ってるくせに率先して飲まそうとする兄と、それを止めるユリアナの声も遠い。
 貴族の集まりでは上品に振る舞うレーゼンも、今宵は自制を知らないらしい。あるいはこちらが本当の彼かもしれなかった。騎士団の中にいると面倒なしがらみを忘れられると言ったのは誰だったか。
 ただ陽気に笑う。
 この馬鹿騒ぎをしているのが世界を守る楯だなんてにわかには信じがたい。やたらと酒を勧めてくる面々を交わしつつ、ユーゲンは溜め息をついた。
 騎士団は総じて酒豪が多いようだったが、夜がふける頃には流石に潰れる者が出てきた。
 ユリアナがいくらか止めてくれたとはいえ、新人の洗礼に付き合わされたユーゲンは酒場の外に出た。顔見知りはとっくに潰れている。自分の分もレーゼンに押し付け潰れさせたところで、ようやくこうして外の空気を吸うことができた。
 空の酒樽に腰掛け、空を見上げる。吐く息は白く、闇に吸い込まれていく。
 このまま今日は帰ってしまおうか。
 団長や酒に弱い団員は既に引き上げたようだし、自分がいなくなっても問題ないだろう。そう考えて、勢いをつけて立ち上がったのがいけなかった。
「……やばい」
 急に胸の底からせりあげてくるものを感じた。深呼吸してみるが、案の定なんの役にも立たない。とっさに道の窪みにしゃがみ込み、しばらく格闘してはみたものの、ユーゲンはあっさり白旗をあげた。
 自分には三杯が限界だなと、頭の片隅で冷静な声がした。一種の現実逃避だ。
 ああ、情けない。
 げほげほとみっともなく咳き込んだところで、背に添えられた手があるのに気付いた。
「大丈夫でござるか」
 この声は誰のものだったか。考えるが、すぐには答えが出ない。知ってる声だ。
 団員の誰かであるのは間違いがないのだが。
「ほれ、水だ。口をすすぐといい」
 口元に差し出された杯を素直に受けとる。口をすすぎ終わると、今度は手拭いと新しい杯が差し出された。いたれりつくせりだ。
「ぬるま湯だ。ゆっくり飲まれよ」
 忠告にいちいち頷いて、ユーゲンはゆっくりと飲み下した。口の中がまだ酸っぱいような気もしたが、さきほどの水よりは湯のほうが体に馴染む。
 ほう、と息をつくと、落ち着いたかと問掛けられた。ようやく頭が動き出してくる。
「なんとか」
「それはようござった。あまり無茶な飲み方はしてなかったようだが、気を付けねば」
「……相性がすこぶる悪いんです」
「酒と、か?」
「酒と文字と、です」
 魔術師は盛大に顔をしかめ、ちびちびと湯を口に含む。どうやら少しだけ塩が入っているらしい。とっさにここまでは準備できないだろうから、こうなることは見越されていたのだろう。
「文字? 魔術書などはどうなるのだ」
「読むのはいいんですよ。ただどう書いても人が読めるような字にならないんです」
 まったく、なんだって生まれながらの悪筆をこんなところで暴露しているのだろう。
 ユーゲンは盛大に溜め息をついた。
 まだ酒が抜けきっていないのかもしれない。いつもより口が軽い自覚があった。
「これ、大丈夫か」
「……とりあえず生きてます」
 言いながら、ごろんと寝転がる。杯は空だ。
「うむ。足はついているな。だがそのようなところに寝転がっては風邪をひくぞ」
「面倒です。このまま寝ます」
 たしなめる声などなんのその、ユーゲンは寝返りを打った。これこれ、と温かい声に揺さぶられる。
 ちらりと片目だけをあけて見るが、相手が誰かは分からなかった。顔が闇に隠されている。けれど笑っているようだった。
 笑っていると何故だか分かった。
 介抱してくれた男の向こうに空が見える。歪に切り取られた、暗い空。
「……空が狭い」
 ユーゲンは口を尖らせた。酔っていなければ決して見せない表情だった。面白くないと、その瞳が語っている。
「そうさのぅ」
 彼は頷く。一つにまとめているらしい髪が、さらりと流れる。
 同じ空を見ている。
「だが旅の空なら、もっと広いぞ。果てがない」
 遮るものが何もない。海も空も大地も、どこまでも行けるように思える。世界は広いのだと。
 おぬしも見れるぞ、と。
 男は笑った。
「それは……悪くないですね」
 存外、悪くない。
 呟いて、ユーゲンはそのまま目をつぶった。夢の淵へと下りていく。すとんと落ちるような感覚があったかなかったか、いつの間にかそこは一面の青だった。
 雲はなく、晴れわたっている。
 夢だと自覚してはいた。何故ならそこには自分ひとりしかいなくて、奇妙な浮遊感があったから。体がいやに軽い。一歩踏み出すごとに草が踊る。風が帽子をさらっていった。人ではないものの囁きが聞こえた。
 ユーゲン。
 誰かが呼んだような気がして振り向けば、そこは海原になった。草の香りは潮のそれへと。
 寄せては返す波が笑っているようだ。
 笑いながら、名を呼ばれる。
 けれど同時に背後からも名を呼ばれていて、振り返らないのにそれが誰だか分かってしまう。
 呼ばれているの、とユリアナが訊いた。
 行ってしまうのか、とレーゼンが訊いた。
 違いますよと答える自分の声が遠かった。精霊は僕を誘ったりしませんよ。ただ気まぐれに呼び掛けるだけ。ただそれだけなんですよ。
 お前は凄いなと兄が笑う。お前は自慢の弟だ、誇りに思うぞ。騎士団にも名を残すに違いない!
 いつのまにかレーゼンの声に折り重なるように、父と母と義母の声も響く。他にもたくさん、同じような響きが繰り返される。大合唱だ。
 違うんですよ。
 反して、呟く自分の声はかき消されてしまう。そんな大層な人間じゃないんです。声をあげる。
 そしてやはり、届かない。
 海は消え、声は虚空に消えていく。かき消される。

 ――まったく、しょうのないやつだ。

 突然、心底呆れていると分かる声が響いた。ユリアナじゃない。彼女の言葉はいつも、微妙な引力を感じるから。その声はただ真っ直ぐだった。
 誰だ?
 ユーゲンは呼び掛けた。




 呼び掛けても、寝台にうずくまった体はぴくりともしない。うつぶせに寝ている新人を見やりつつ、ミナセ・エンライは深い溜め息をついた。
 かれこれ四半刻は格闘している。遠征へは明日出発とはいえ、色々と覚えてもらわねばならないこともあるというのに。案内役などするものではない。
「これ、ユーゲン」
 思いきって強めに体を揺すってみる。
 すると効果はあったようで、のそのそと魔術師は動きを見せた。器用に体を丸めたまま寝返りを打つ。
「起きたか?」
「あたまが……」
「二日酔いだな。ほれ、とりあえず起きて水を飲め」
 緩慢な動作だった。差し出されるままに杯を受けとり、薬も言われるままに飲んだ。本当に意識があるのか疑問だ。
「起きたか?」
「……おはよう、ございます」
 再度の問いかけに挨拶が返される。幾分ましになったらしい。どろんとした瞳にようやく生気が戻る。
「寝起きが悪いのか?」
「いつもはここまでは……」
 もう酒は飲みません、とぶつぶつ呟く。ミナセもそれがよかろうと笑った。
「ミナセさん……でしたよね」
「覚えていてくれたか。さん付けはいらぬぞ。気安く呼んでくれ」
 ここはと問われたので、ミナセの実家だと答える。
 ユーゲンはうろうろと視線をさまよわせ、動揺しているようだ。表情があまり動かないので分かりにくいが、根は素直なのだろう。
「えっと、まさか昨日……」
「おお、すまぬな、どちらに運んだらいいか分からなんだゆえ、勝手に運ばせてもらった」
「それはとんだご迷惑を」
 深々と頭を下げるユーゲンに、気にするなと笑う。
 ミナセはユーゲンを運ぶ名目で、さっさと酒場から逃げ出していたのだ。感謝したいくらいだ。
「なに、おぬしはよく寝ていたので運びやすかった。中途半端に意識がある方が厄介でのぅ」
 絡むわ笑うわ泣くわで、特に酒に呑まれたレーゼンなどは大変だ。
「……それはなんというか、申し訳ありません」
「よいよい」
 なんともいえぬ顔が面白くて、自然笑顔になる。
 朝食を用意していると言えば恐縮していたが、食欲はあるようだ。顔色もそれほど悪くない。あまり広くもない屋敷を歩き、食堂へ移動する。
「このあと本部へ行かねばならぬが、平気か」
「大丈夫です」
「その前に宿にでも寄るか」
「ユリアナのとこに泊めてもらっていたので、あとで荷物を取りに行きます」
 食べながらもごもごと会話する。
 その様子を観察しながらやはり貴族だなと感心する。品があるというか、洗練されている。あくまで剣しか知らぬ自分から見てだが。
「ケイブ家か、先に行っても平気だぞ」
 何気なく言ったところで、はたと気付く。
「そういえば、おぬしは甥にあたるのだったな」
 なんとも間抜けな話だが、今思い出した。ミナセには姉が二人いて、次女がユーゲンの母にあたる。
「そのようです」
「いや、これは失礼した」
 親戚関係を失念するとは、実に間抜けだ。だが無理もないことだと一方では思う。シャンルン家はフェルミナの地に居を構え、交流がない。王都に住むものたちは大なり小なり面識があるし、共に鍛練に励むこともある。王都から遠く離れた次期団員は、いい意味でも悪い意味でも、基本的に親戚という意識が希薄だ。
 ユーゲンは幼い頃に王都にいたらしいが、いかんせん、ミナセはその頃既に入団していて世界を飛び回っていた。当然会ったことなど一、二度だ。
 だがそれにしても、と思う。
「フェルミナですから、仕方ないですよ」
 淡々とユーゲンは言う。特に気にしてないようだ。
「ユリアナとウェロー魔術院で再会したとき、すっかり忘れていて怒られましたし」
 騎士団という性質上、親戚という枠組みは意味を為さない。個々の繋がりと全体のまとまりを重視するが、それ以上でもそれ以下でもないのだ。
 それに。
「すまぬな、拙者はどうもそういう概念に疎くてな」
 家族は家族。仲間は仲間。
 ユリアナのことも姪というよりは仲間として見ている。幼い頃をもっと見ていれば違ったのだろうが。
 そうじゃないものもいるだろうが、少なくともミナセはそうだった。関係を細かく分類するのに意味を見い出さない。
 きっとユーゲンも同じだ。
 捉え方が違うのだ。他の人間とも、ミナセとも。ミナセもまた、常人とは多少異なっている自覚があった。
「――あら、起きたのね」
 ふいに入り口の方で声があがり、見れば妻のカヤが佇んでいた。
「おお、カヤ。手続きは終わったのか?」
「ええ。おはようユーゲン、よく眠れた?」
「おはようございます。すっかりお世話になってしまって……」
「構わないわ」
 カヤはにこやかに笑った。戦うときの真摯な横顔も、華やかな笑顔も、ミナセには美しく映る。
 二人は昨夜知らぬ間に自己紹介をしていたようで、なんとなく親しげだ。
「……そうそう、表にユリアナが来てるわよ。ユーゲンいないかって」
「ユリアナが?」
「本部まで連れていくって」
「ふむ。ということは拙者はお役目御免だな」
「そのようね」
 ふふふとカヤが笑って、ミナセも笑みを返す。ユーゲンだけが静かにうなだれたようだ。
 ほどなくユリアナが現れ、魔術師を本部へと引きずっていった。明らかにユーゲンは脱力していて、その体が重そうなのは二日酔いのせいばかりではないだろう。その後ろ姿を微笑ましく見送る。
「気に入ったんでしょ?」
「分かるか?」
 にっと口端をあげてみせると、カヤも同じ表情を返してきた。
 分かるわよ、妬けるわね。などとうそぶいて。
「でも、私と一緒にいるときは私を見てくれないと嫌よ」
 カヤは八歳年上で、俗に言う姐さん女房だったが、ミナセにとってはこの上なく可愛いと思える相手だった。思わず顔が綻んでしまう。
 ユーゲンが見たら引くだろうこの雰囲気も、二人にとっては日常だった。
「無論だ。せっかく時間ができたのだから、今日は共に過ごそう」
「ふふ、約束ね」
「うむ。……それにしても、明日から側におぬしがおらぬというのは変な感じがするのぅ」
 入団してから十五年、側にいなかった時がないと言っていい。寂しくて泣くかもしれん、と言うと一際華やかな笑い声があがった。
「いくら寂しいからって浮気しては駄目よ?」
「安心せい。世界が終わってもそのようなことはありはせぬ」
「あら、信じるわよ?」
「うむ」
 でもそうね、とカヤは言葉をつむいだ。さきほどから唇は笑みをたたえたままだ。ミナセも優しく目を細めている。
「ユーゲンと一緒にいたらどうかしら。浮気防止になるし、寂しくないわよ」
「ふむ。浮気はせんが、退屈しなさそうだの」
「でしょう?」
 さりげなく密着しつつ、二人は笑顔で言葉を交しあう。明日から離れるとあってか、自宅のせいか、周囲を気にもとめない。
「あの……」
「おお、チトセ。いかがした」
 細い声が響いて、見れば、十歳になった息子のチトセが庭先でつったっている。
「父上と母上がこの上なく仲むつまじいのは存じておりまするが、庭先でそれをやられると困ります」
「あらどうして?」
「気が散って鍛練できません!」
「うむ、だが明日から我らはちと離れればならんのでな、我慢せい」
 明日からおぬしはカヤと一日中いられるのだからと言うと、息子はすっかり脱力してしまった。諦めたように、庭に出て素振りを始める。若干やけくそじみている。
 その様を見やりつつ、ミナセは明日からの遠征に思いをはせた。
 やっぱり泣くかもな、と少し思った。

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