|
空高く、祝福の花びらが舞う。 一組の男女の絆を祝うそれに、老人は昔日を思い、若者は来る日を夢想し、子らは花びらに戯れる。 めでたい日に顔をしかめていた人間は、花嫁たる己だけで。 嬉しそうに笑う隣の男が忌々しかった。
それから約三年後、あの時の表情のまま、クロイツは笑っている。 「ねぇセシル、もうすぐ結婚して三年だね」 聖騎士はそれには答えず、一気に酒をあおる。 セシル・メルヴァイクにとって、クロイツ・ランドとの結婚は不本意極まりないものだった。子供の頃の幼い約束を後生大事にとっておいたこの男が、両家に持ち込んで婚約を成立させてしまったのが彼女が成人する直前。そのまま彼女は騎士団に入団したので、幼馴染みが外堀を埋めていくのを為すすべもなく見ているしかなかった。この時ばかりは、クロイツより二年先に生まれた不運を呪いもした。 「……向こうに行く」 また不本意ながらユーゲンと妹のクリスのいるテーブルを顎で示す。こうしないと、あとでうるさい。 「うん、あとでね」 ひらひらと手を振るクロイツがいるテーブルには、空の杯が無数に転がっている。騎士団内ではセシルとクロイツが一番の酒豪で、大抵こうして皆から外れて飲み比べをする。やがてそれに飽きた頃に顔を見るのが嫌になって離れるのだが、飲むペースが違いすぎて結局ここに戻るはめになる。それを分かっている余裕の表情が憎い。 セシルの睨みをものともせず、クロイツは笑っていた。
「セシル、そんな嫌なら何で結婚したんだい」 「仕方なかったんだ!」 だん、と杯をたたきつける。セシルは酒豪だが、回るのも抜けるのも早い。ユーゲンは苦笑している。 「帰還する頃には両親どころか親戚連中まで味方につけてて、撤回できる状況じゃなかったんだ…」 未だに恨み言を口にする姉に、クリスは眉尻を下げる。 「姉上、義兄上は良い方ではないですか」 「知らないから言えるんだ! 女には愛想がいいくせに私に近付く男を片端から脅迫して、公共の場でこれ見よがしにベタベタして、あのお得意の笑顔で母上に愛想ふりまいて…」 言う内に悲しくなってきたのか、セシルはテーブルに突っ伏す。 「あいつと一生沿い遂げるのか…」 全身でため息をつく。 クリスはいささか困惑した。本当に小さいころ二人は、あれほど仲むつまじがったのに。クリスが羨むくらい、仲間外れだと感じるくらいに仲がよかった。両親を早くに亡くしたクロイツのためにセシルは色々と手助けをしていて、彼もそんな彼女にすっかりなついていた。だが真剣が握れるくらいの歳になった時、姉は急に彼を遠ざけた。理由を言うこともなしに。 「長子は血を残さなければならないなんて、不都合極まりない」 セシルは恨みのこもった目でクリスを見上げた。 「クリス、お前が長子になれ」 「無理です」 「はっきり言うな…」 セシルはまたもや机に突っ伏した。そんな姉にクリスは溜め息をついた。テーブルにこぼれた酒を拭き取りつつ、たしなめる。 「姉上、今日はユーゲンの送別の宴です」 「あ、そうだったな……すまない、ユーゲン」 「いやいや、いつも見てて面白いから」 「面白いとはなんだ!」 「姉上!」 クリスの制止が入るが、セシルはものともしない。妹は生真面目だが、姉は喧嘩っ早く、大雑把で、よくも悪くも正直だった。聖騎士らしくない聖騎士といったのは誰だったか。 「せんぱぁ〜い!」 突如情けない叫び声が響き、ユーゲンはぎくりと肩を揺らした。反対にセシルは口端をあげる。 「呼ばれてるぞ、先輩?」 ちょっと離れたところからティークが大きく手を振っている。すっかりできあがっているようだ。 「……やれやれ」 「これで最後だ、盛大に甘えさせてやるといい」 「僕は親じゃないんだけどなぁ」 「親鳥が雛に餌をねだるようなものだ。諦めろ」 セシルは楽しそうに言った。その間にもティークが親鳥を呼ぶ声は強まるばかりだ。最後だからとユーゲンはしぶしぶ腰をあげる。 「僕がいなくなったらどうするんだか」 「マナがなんとかするだろうさ」 そのセシルの言葉にそうなるといいんだけどなぁとユーゲンは呟いた。面倒だといったように眉をしかめてみせるくせに、なんだかんだで後輩は可愛いのだろう。自分の杯を手に取ると、魔術師はひとつ溜め息をついた。 じゃあまたと声をかけられたクリスは、どことなく沈んでいる。知らず立ち去る魔術師を目で追っていた。 セシルは杯に酒を注ぎ足してやった。 「なんです?」 「まぁ飲むといい」 困惑していたクリスだが、酒に目を落とすとぐいと飲み干した。 酔って、ついでに言えばクロイツに怒って、思わず二人のテーブルに来てしまったが失敗だった。もっと二人でいさせてやれば良かった。 「……あれだ、なんなら押し倒してしまえ」 「はい!?」 「既成事実を作るのが一番てっとり早い」 「姉上、酔ってるんですよね!?」 頼むからそうだと言ってくれと言わんばかりの形相だ。セシルは気にもとめない。 「お前は昔から望みを口にしなさすぎる」 「……姉上は開けっ広げすぎます」 「真面目くさった聖騎士など母上だけで十分だろう」 「また何か言われたのですか」 「孫はまだかと」 セシルと母親は若干折り合いが悪い。セシル本人の性格も一因ではあるが、発端はクロイツとの結婚だ。 あんな男と沿い遂げるなどごめんです。 そう食いかかったセシルに対し、母は一言。お前を貰ってくれる殿方など他にはおらぬでしょう。あれを聞いて思わずセシルは抜刀しかけた。 「お前が当主ならよかったのに」 「またそのような」 「母上も言っていたぞ、もしクロイツがいなければクリスを跡目にするしかなかったと」 クリスの貰い手ならすぐ見付かるだろうと言えば、母は当たり前だとばかりに頷いた。あの子に関しては心配は無用。だが長子が家を継ぐ鉄則を破れば、無用な跡目争いを招くことになる。それは避けたいと母は言った。 だが残念、クリスはどうなるか分からない恋をしている。よもや二十も離れた男に懸想しているなど夢にも思うまい。セシルは内心舌を出した。どうにか成就させてやりたかった。もし結婚もせず退団すれば見合い決定だ。クリスくらいは家に縛られない生き方をしていいはずだった。 そんなことをつらつら考えていると、妹がぽつりと言った。 「姉上の方が人望があります」 「あーガキ大将時代のことか? あの頃はよかったなぁ……まだクロイツの妨害がなくて、男友達も沢山いた」 記憶を辿れば、実に自由で輝かしい日々だった。 「姉上、帰ってきてください」 目の端に、クロイツに話しかけるユーゲンが見えた。一見にこやかに言葉を交わしている。でもあの男はユーゲンをことさら嫌っているはずだった。 セシルはそのままぼんやりと眺め、やがてテーブルに突っ伏した。クリスが困惑したように何度も呼びかけてくるのを聞く。彼女は昔から堅苦しく姉上と呼んできた。 そしてその横には必ず、クロイツがいた。
セシル、セシル。ねぇ、セシル。
「ねぇセシル、ぼくとけっこんしてくれる?」 とがった耳まで真っ赤に染めて、どこか媚びるような色を瞳に潜ませて。 クロイツは人一倍、忘れられることや嫌われること、ひとりになることに並々ならぬ恐怖を感じる性質だった。両親を物心つく前に亡くしたせいだろう。そんなクロイツを、セシルはいつだって手を引いてやっていた。 向けられる視線が嬉しくなかったわけではない。 かといってうっとうしくなかったわけではない。 最初に手をさしのべた時から妙になつかれて、それ以来手が離せなくなったのだ。 「……しかたないな」 セシルは溜め息まじりに首肯した。 途端輝きだした深緑の瞳。 いつしかそれが違うものだと気付き、手を離そうとしたのに。
「セシル、ほらセシル、起きて」 優しさを前面に出したような声が静かに鼓膜を揺さぶる。きっと知らない人間が見たら、何の問題もない夫だろう。遠慮など微塵も感じさせない手つきで、妻を揺り起こす。 「……別に寝てない」 セシルはのそりと半身を起こし、声のほうを見やった。相変わらずの笑顔がある。いつも見ているものだが、どうにも好きになれない。時々本当にひっぺがせるんじゃないかと思う。昔の方が可愛げがあった。泣き笑いのような、そんな表情の方が。 見れば他の団員達は潰れるか帰るかしたようで、静まり返っている。ティークが大の字になって床に伸びている。あと少しすればマナが全員をたたき起こしにくるのだろう。 「ほら、帰ろう?」 ごく当たり前のように手をとられ、振り払うのも面倒だったのでそのままにしておく。嬉しそうな表情を見ないようにして、まだ少し酔いの残る足取りで外に出る。空気が澄み切っていて、火照った意識がぴんと引き締められた。 白く染まる息が世界に消えていく。底なしの空へと落ちていく。 王都の空はいつも、こちらに向かって落ちてきそうで、押しつぶされるような錯覚を覚える。幼い頃はいつか飛び立つのだと信じてやまなかった空だというのに。いつか空を飛べるのだと、無邪気に信じていた。それなのにいつの間にこの肉体はこれほど重く、地に縛りつけられるようになったのだろう。 一体何がここまでこの身を縛り付けるのだろう。 「セシル?」 待ってセシル、置いてかないで。僕、そんなに早く走れないよ―― 脳裏に、いつかの声が甦る。そのとき反射的に、繋がれていた手を振り払ってしまった。昔からそばにあった、彼の声。憎いわけじゃないのに。それでも、たまに息苦しくてたまらなかった。 クロイツの目が、ふっと翳った。 とっさに腕をとられ、壁に押し付けられる。 セシルはまだ酔いが残っていたせいか、反応が遅れる。鎧が鈍い音を立てて、碧眼が夫をきつく睨んだ。 「なんのつもりだ」 クロイツは答えない。ただ笑っている。 「私はお前のものじゃない」 「好きだよ」 「私はお前が嫌いだ」 セシルにはクロイツを傷付けている自覚があった。けれど言わずにはいられない。昔から、思っていることは口に出さねば気が済まない性分だった。そのたびに彼は傷付いて、けれども変わらず、むしろ一層セシルに近付こうとした。 不毛だ。 何が不満なのだと、人は言う。 確かに外から見ればこの上なく完璧だろう。世界を守る騎士団で優秀な弓使いとして一角をなしていて、物腰柔らかく、妻に優しく、妻の実家に敬意を払い、他の女には目もくれない。誰も彼もが、何が不満なのだと言う。そして本当は好きなんだろうと、そう邪推する。 別に憎いわけじゃない。どちらかと言えば嫌いだが、世界が終わるときにそばにいたいと言われても拒まないだろう。 けれど何かが足りない気がしている。いや、きっと足りているからこそだ。 一見埋まっているべき全てが埋まっているから、何が足りないのか分からない。たとえその覆いが薄氷のように脆いものだとしても。 手首を強く押さえつけられた状態で、口付けられる。 交わされる吐息は、酒の香りがした。
|