緑酒すら灰の味

 どうしてこの頃僕を避けるの。
 いつだったか、成人前に、まだ彼が今のように変わってしまう前に、面と向かってそう尋ねられた。面倒そうに手を振る仕草では納得できるはずもなく、珍しくセシルの両肩をつかんで問いただしてきた。
「お前と一緒にいたくないんだ」
 理由はそれだけで十分だろう、とセシルは言い放つ。するとあちらも、なんで一緒にいたくないのかを知りたがった。
「僕が怒らせた? 何も言われないんじゃ分からないよ。駄目なところがあったら直すから、だから」
 一緒にいて。
 ずっとずっと、僕と一緒にいて。
 言葉にしなくても、嫌でも伝わってくる思いだった。実際に口に出して乞われたこともある。
 なんて弱い男だろう。

「馬鹿が……」
 ひりついた手首を見やりつつ、セシルは毒づいた。さきほどまではクロイツが一緒にいたが、今は部屋に一人だった。日はすっかり昇りきっていて、容赦ない光は痛々しい肌の色をさらす。時々こうして、クロイツは爆発する。手をあげることさえしないが、衝動がおさえきれなくなるらしかった。そして大抵、そういうときはいつもと同じように笑っている。
 そして聞くのだ。
「俺が怖い?」
 セシルはそれにはいつも応えない。答えるのが馬鹿らしくて仕方ないからだ。
 きっともうすぐ何食わぬ顔で起こしにくるだろう。
 無性に腹が立って、セシルはそのまま出かけることにした。騎士団が次の遠征にでるまでは少し日数がある。父の墓参りにかこつけて、少し羽を伸ばそう。
 鉢合わせすることを嫌って、聖騎士は窓から屋敷を抜け出した。時々それを読んだクロイツが先回りしていることがあったが、今日は首尾よくいった。鎧を脱いだままのこざっぱりした格好で、街中を進む。
 通りを吹きぬける風が気持ちよかった。
 風に背を押されるようにして、騎士団墓地へと向かう。そこに眠る父の記憶は実はあまりなかったけれど、頭を撫でてくれた手が大きかったことは覚えてる。高く抱き上げてもらったとき、あまりの空の近さに歓声をあげたものだ。
 父の墓は既に花が供えられていて、セシルは何をするでもなく墓石を見つめた。
 元々ひとりになるためにやってきたのだから、目的があるわけじゃない。しばらくそのまま風を感じていると、芝を踏みしめる音がした。とても軽い音だった。
「シューラ」
 どこを見つめているのか分からない、吸い込まれそうな瞳の巫女だった。
 若返りの泉を何度か使用したという彼女はいつだって見送ってきた。この墓地には、多くの知己が眠っていることだろう。だからシューラがここを訪れるのは不自然なことじゃない。
 けれど彼女が手にしていた赤い花がひどく不釣合いのような気がした。
 彼女はかつて結婚していたという。
 巫女という性質からなのか、彼女はあまり人ととは関わらなかった。ユーゲンと共に退団したニンジャとは精霊をおろすほどの仲だったけれど、およそ執着といったものとは無縁なように思えた。
「邪魔したかしら?」
「大丈夫だ」
 シューラはひとつうなずくと、セシルの父のものより小さな墓の前に膝をついた。
 ナナイ・ナーホ。
 それが彼女の夫の名前らしい。小さく祈るように目を伏せたあと、シューラは花を添えた。セシルは立ち去るタイミングを逃して、そのまま立ち尽くす。巫女は気にもとめていないようだ。垂れた頭が正しい位置に戻ったのを見計らって、聖騎士は問うてみた。
「どんな人だったんだ?」
 深い色の瞳が優しく細められた。まるで耳を澄ましているかのように。
「優しい人だったわ」
「喧嘩はした?」
「私が困らせてばかりだったような気もするわ」
 小さく笑う美しい顔を見て、結婚したくてしたんだなと分かった。静かな喜びと懐かしさと、悲しさと。純化された感情をたたえた表情だった。
 そんな彼女を見たせいか。
「……シューラ、愛ってなんだ?」
 突然、問いは思いがけないところから飛び出した。普段なら口にもしない言葉。けれど一度口に出してしまったなら取り返しはきかない。
 そして口に出してはじめて、これが訊きたかったんだと納得できた。
 クリスやティークを見ていれば、恋をしているのがわかった。誰かを想うということはああいうことなのかと、ぼんやりと理解できた。けれどそれだけだった。セシル自身には全く及ぶところはなかった。
 彼女なら知っていると思った。長く生きてきた彼女なら。
 いや、答えをくれるならきっと誰でもよかった。
 シューラはしばし黙って聖騎士を見つめたあと、唐突に問うた。
「土の形を知っている?」
「は?」
「水や風や、火。それらの形をあなたは知っている?」
「いや……」
 いきなり何を言い出すのだろう。セシルは困惑して足を下ろしている大地を見た。
 答えを求められてると気付き、たどたどしくも口にする。
「火は輪郭がないし、水はこぼれ落ちる。風は目には見えない。土は……」
 今立っている。
 土とは人の寄る辺だ。なのに形とはどういうことだろう。
 シューラは歌うように口を開いた。
「水も火も風も、誰もその姿を知らない。常に目にできる土だって、果てしなく広がっていて、人知には及ばない」
 ただ、あるだけ。
「何もかもが、あるようにあるだけ」
 シューラはそれきり口を閉ざしてしまった。墓に添えられた花に手を触れ、まるでその下に眠る相手と会話を交わしているかのようだ。
 風が薫香を運んできた。
 セシルにはよく分からなかった。感覚的なことにはどうも鈍かった。シューラの言わんとすることを掴み損ねている。けむにまかれたような気さえした。
 きっと誰のどんな言葉を聞いても、すとんと落ちるような答えにはそうそうめぐり会えないだろう。不可能に近いかもしれない。それでも聞かずにはいられなかった。昔から分からないことだらけだ。
 自分の本当の望みを知っている人間などいるのだろうか。
「愛していたか?」
 ふいに、セシルは問いを口にしていた。土に眠る相手を愛していたかと。聞いてみたかった。知りたかった。少しでも多くの愛のかたちを。
 それで何が変わるわけでなくとも。
 そのとき初めてシューラは揺らいだ。少なくとも、セシルにはそう見えた。震えを抑えるように、ゆっくり瞬きをする。
 まるで懺悔するように空を見上げ、巫女はぽつりと呟いた。
「……彼のことは好きだった」
 でも私は不実だから。
 その言葉が、いやに耳に残った。




「どこ行ってたの?」
 一見にこやかに、なんでもないといった風に。
 けれどセシルにとってみれば詰問でしかない迫力で、クロイツは問うてきた。目の届かないところに断りなしに行くといつもこうだ。笑顔でちくちくと言ってくる。
 我ながらよく一緒にいるものだと思ってしまう。
 思えば、セシルが入団する前はこんなことは一度もなかった。せいぜいが癇癪で、セシルが眉をひそめてみせれば、ごめんとクロイツが謝ったほどだった。けれど面と向かって問いかけられ、そして拒絶し、そこから彼は変わった。笑みだけを貼り付け、口調を変え、セシルに対して臆することなく迫ってきた。
「どこだっていいだろう?」
 いつものように冷たく返すと、クロイツは案の定手を伸ばしてきた。難なく振り払う。懲りずにまた伸ばしてくる。そしてまた振り払う。
 ここは自室だったから、互いに遠慮などあろうはずもない。単純な力ならセシルの方が強いが、手足の長さという点でクロイツが勝っている。もしいつもの笑顔で手を伸ばしてくるのなら、聖騎士は気にもとめなかっただろう。
 けれどそういうときに限って彼は無表情に戻る。なんでもないといった風を装いながら、決して痛みに慣れることはない。
 手首を捕まえられ、昨夜の名残がちらりと痛んだ。
 その瞬間をつかれ、セシルは寝台におさえつけられた。見下ろしてくる夫を睨みつける。恐れることはない。自分でも不思議なほど、彼に対して怯えなど微塵も感じない。クロイツは何も言わない。ただ真っ黒な穴のような瞳がセシルを見つめる。
 ああ、この馬鹿が。
 想いに種類があるかどうかなど知らない。
 知りたいとも思わない。
 けれど彼と自分の想いは同じではないのは分かっていた。それはどうしようもない隔絶だった。越えられない、決定的な違い。
 それを彼は認めない。
 それに気付いた自分は彼を遠ざけた。傷付いた彼は自分を追い掛け回した。そんなおいかけっこばかりを繰り返して。だから最早愛というよりは強迫じみた意地のようなもので。
 家族にはなれるだろう。
 けれど、愛で結ばれることはない。
 彼の望む愛では。
「ねぇセシル…」
 弓を引く指が、首筋にかかる。
「俺と死んでくれる?」

<< TOP >>
INDEX