酒気に咽ぶ

 セシルは自分にのしかかる夫を静かに見上げていた。
 彼は無表情だった。
 いつものように口端を吊り上げることも、眉一つ歪めることすらしない。ただ深緑の瞳だけが闇の中で暗く沈み、底無しの穴のように全て呑み込んでしまいそうだった。
 首にかかる指に、力がこもる。
 それでも尚セシルは動こうとしない。だらりと力を抜いたままだ。
「俺が怖い?」
 いつもの問いを、いつものまま。
「怖いのはお前だろう」
「セシルは」
「私は、お前を怖いと思ったことなどない」
 いつもとは違って答えを返す。
 クロイツは笑うかと思われたが、実際はセシルの首筋に顔を埋めただけだった。
「セシル……」
 馬鹿め。
 セシルは毒づいた。実際に口に出していたかもしれない。
 どれだけその表情を眺めても、体温が触れあっていても、平行線だ。胸をあたたかく灯すものは、あまりに少ない。そばにいるだけで得られた心地好さは、今は遠く。
 愚かだと思う。
 手をのばすしかしないクロイツも、手を振り切れぬ自分も。
「愛してる」
 いっそ比べる余地もないほどの相手が現れたらよかったのだろう。もしくは全く気付かないで死を迎えられていたら。
 クロイツが肢体をたどりだした。その指で、唇で。
 あがる息が忌々しい。
 なにも感じないでいられたなら、心も体も彼に反応せずにいられたなら、苦しまずに済んだのに。
 セシルはなだめるように頭を撫でた。クロイツが表情を歪める。
 こんな拙い繋がり方しか二人は知らない。
 身の内にクロイツを迎えながら、セシルは小さな囁きを聞く。
 このまま死ねたらいいのに。
 君のなかで、このまま。
 それは切実な祈りのようだった。クロイツはそれを本心から言っていた。そうだと知りながら何も言えぬ自分を、少しだけ寂しく思う。
「……お前、辛いんだろう?」
 白む空を眺めながら、セシルは言った。夫の無駄に長い腕は身体に巻きついていて、そう容易なことでは離さないといわんばかりだった。そんな風にいつも怯えたようにしているのに。辛くないはずはない。
 私を想うことが辛いんだろう。そう聞いた。だったらやめればいいのに。それは口に出さずとも伝わっているはずだった。
「……つらい」
 ぽつりとクロイツは漏らす。こうして君を想うと苦しいのに、でも。それでも。
 彼の瞳は揺れている。
「君じゃなくちゃ駄目なんだ……」
 辛くて苦しくて仕方がないのに、心は否応なくセシルへ向かう。過去の幸せな記憶にしがみつくせいか、溶けた感情がこびりついているせいか。
 自分でも分からない。
 だけどセシル以外にはありえない。それだけは、はっきりしている。
 そんな風に彼は言う。
 この男はどうしようもない馬鹿だ。救いようがない。そしておそらく、自分も。
 触れられれば、拒絶しきれない。最終的には諦めたように力を抜いてしまう。誰かは愛と呼ぶかもしれない。でもセシルはそれをうまく飲み込めない。無視することも捨てることも、丸ごと抱え込むことすらもできない。きっとクロイツも、似たようなものなのだろう。
 自分というものを、持て余している。
 でもそれは仕方ないことだと思っていた。捨てるほどには優しくも冷たくもなれないのだから、嫌でも何でも、このまま誤魔化したまま生きていくのだと。
 そんな気がしていた。




「ねぇもしかして、おめでたじゃない?」
 それは、あとはただ王都へと帰還するばかりとなった道中でのことだった。起きてから覚えのない胸のむかつきに悩まされていたセシルが、マナに相談するとそんな答えが返ってきた。
 オメデタ。
 あまりにも思いがけなかったので、それが妊娠を意味しているのだと理解するまでに数秒を要した。ありえないとは言えない。でもどうにも信じられなかった。
「ちゃんと調べてみないと分からないけど、たぶん間違いないと思うわ」
 マナは優しく微笑んだ。ここのところティークとごたごたしていたようで少し疲れた様子だったが、少なくとも今はその影はない。隣に腰掛けていたクリスも嬉しそうに頷いている。日常に降り積もる寂しさをつかの間とはいえ吹き飛ばしてくれる知らせだから、「おめでた」というのだろう。
 けれどセシルにとってはどういったものかは判然としなかった。まだ膨らんでもいない平坦な腹に手を添えてみても、そこに命があるとはにわかには信じがたかった。
 それはクロイツも同じだったようだ。
「こども……?」
 もしかしたら子供ができたかもしれないと告げると、夫は呆然と呟いた。珍しく笑顔を取り落として、素の表情のままだった。視線はセシルに注がれているはずなのに、彼女のもっと内側を見ようとして、結局何も見えていないようだった。
 セシルにとっても、おそらくクロイツ当人にとっても、思いがけない反応だったのだろう。
 はっと肩を揺らすと、彼は慌てて微笑みをまとった。
「やったね、セシル!」
 どこか空々しく聞こえる喜びの声は、取り繕うように、他の団員へ知らせと走る。不気味なほど、クロイツはセシルを見なかった。



 懐妊はあっという間に団員たちの知るところとなった。
 戦闘からはもちろん、夜番などからも一時的に外された。全ての団員が力に溢れているからこそできることだ。補助要員も攻撃手も、どこにも不足がないからこそ。
 セシルは気遣いという見えない檻の中に追いやられ、そうなることで逆にクロイツとの距離が開いた。
 表向きは以前と変わらない。いや、むしろ気遣う場面が増えたという点で以前よりべったりだ。でも何かが決定的に違っていた。
 王都へ帰還して背負われるようにして実家に行き、母が狂喜し、クロイツが大げさに喜んでみせる。その一連が全て、セシルには吐き気をもよおすほど、作り物にしか見えなかった。よくできた、幸せのまがい物。
 息苦しくてたまらない家を抜け出して、セシルは一人で街中を歩く。
 あれやこれやとうるさかった使用人やクロイツを何とか遠ざけて、目的もなく歩く。
 ふと視界の端に、大きな背を折り曲げるようにしてマナルルタに笑いかけるティークをとらえた。本部に向かうらしい二人は聖騎士には全く気付いていない。セシルが実家に閉じ込められている間に、マナルルタとティークは互いの距離を縮めたようだ。笑い合う二人を見て、あれこそが幸せなのだろうとぼんやり思った。
 ――セシル。
 わざわざ思い返さなくとも、クロイツの声はすぐ耳に甦る。鮮やかに。
 この胸のむかつき以外に新たな命の兆候などなく、だからクロイツの動向がいつもより目に入った。それがうっとうしくて、こうして逃げ出してきた。
 本部の近くの森に入り込み、ひときわ大きな木の下に腰を下ろす。
 ふっと息を吐いて、今のは果たして自分のものか、それとも腹の中の命のものかと奇妙なことを考えた。自分が母親になるなんて、やっぱり変な感じだった。成人前は一生未婚になるかどうかという賭けすらあったというのに。無論、その賭けの主催者ごとぶち壊してやったが。
 目をとじて、暖かな日差しにまどろむ。
 幼い頃もこうやって、よくひとりで過ごしていた。仲間内で駆けずり回って、ふとしたときに無性にひとりになりたくなって、森の外れで時間をつぶした。
 そうしていつからか決まってクロイツがやってくるようになっていた。
「セシル?」
 それは大人になった今も、全く変わらなかった。
「こんなところで寝たら風邪ひくよ?」
 言いながら彼も、セシルの隣に腰を下ろす。もしここが屋敷の近くであったのなら、よい夫としての仮面そのままに帰宅を促しただろう。でもここにいるのはそんな男じゃない。子供という存在に彼は戸惑っている。いっそ滑稽なほど。
 それが分からぬほど、セシルも愚かではなかった。
「ねぇセシル、俺から逃げたい?」
 ぽつりと、クロイツが呟く。視線は出会わない。セシルは夫の横顔を見上げるが、クロイツは空を見つめている。やがて聖騎士も視線を空に戻した。
「逃げてほしいのか?」
「逃げたいんじゃないの?」
 子供ができたら、いよいよ逃げることはできなくなる。
 血を残すということは、大地に深く縛られるということ。家という礎に縛り付けられることを意味する。身軽なままではいられない。だから。
「お前は怖いんだろう」
 昔から、クロイツは臆病だった。
 遠慮なくセシルに手を伸ばしているように見えて、本質は何も変わっていない。怖くてたまらないのだろう。すがりついているのだ。セシルがまだ少しは自分を思っていてくれるのではという、かすかな希望に。
 けれど子供という未来は、その希望を義務に変えてしまう。
 だから怖い。だから試している。
 逃がすつもりなど、微塵もないくせに。
「……言っただろう、私はお前なんて怖くないんだ」
 とてつもない馬鹿だ。自分もクロイツも。同じくらい馬鹿で、同じくらい異常で。優しくて穏やかなものに身を浸していられない。一体どちらが先に溺れたのだろう。
 クロイツは大きく息を吐くと、いつもの笑みをまとう。
 セシルもいつものように、それを睨みつける。ただ唇だけが奇妙に歪んでいる。
 笑いそこねたのか、泣きそこねたのか。
 セシルにはなんとなくわかっていたような気がした、最初から全て。贋物にあえぐ生き方をよしとはしなかった時期もあったけれど、結局振り払えはしなかった。きっとこうした心を抱えたまま、死ぬまでともにいるのだろう。
 かりそめの美酒に、酔ったふりをして。
「ねぇセシル、俺、君が好きだよ」
 クロイツは笑って言った。きっとこれからも変わらずに彼は愛を囁き続けるのだろう。
「だから俺より先に死ぬって約束してくれない?」
 そしてセシルも振り払いきれないのだろう。
「普通逆じゃないか?」
「だって俺が死んだあとで他の男と話されたら嫌じゃないか。俺は君の死に様を見届けて、君を独占したまま、君のあとを追うんだ」
 どうしてこうも足を囚われているのだろう、こんな男に。ああそういえば、昔から捨てられた子犬などを無視できた例がなかった。そんな風にセシルが思ってるとは知らず、クロイツはただじっと笑顔を向けてくる。
「私はお前が嫌いだ」
 だからセシルはいつものように拒絶を口にする。
 愛は返せない。
 けれどそばにいてやるくらいはしてやろう。互いに痛みに酔ったまま生きるのなら、それはそれでいいのだろう。そう思うことにする。
 クロイツが伸ばしてきた手を気まぐれに握ってやって、二人は雑踏に消えた。

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