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遠征当初から微妙だった距離は、ゾドコル戦のあとには更に開いていた。
ティークはマナを徹底的に避け、一人で仲間の先頭を歩いていることが多くなった。ユーゲンと年老いたニンジャの代わりに入団したサムライ二人についていることもあった。どちらにしろ、マナのそばにいることはなかった。前は暇さえあれば近くに寄ってきたのに。
マナはあの時のことを思う。
ゾドゴルがティークに向けてその手を伸ばしたとき、心臓が大きく音を立てた。気付いたら駆け出していて、また気付いたら彼の腕の中にいた。あの瞬間、補助も魔物も全部頭から消え去っていた。痛いくらい力がこもる腕に、必死に抱きついていた。
そこにこそ真実があるような気がした。
けれどそれを認めるには痛みを伴う。思い出すことも忘れることもできない“彼”を、裏切るような気がしたから。彼を心から追い出せない自分は、ひどくティークに対して不誠実だと思ったから。結局は、自分の心を優先しているのが嫌でたまらなかった。
心乱される。
かつての境地を思い出し、自分を乱したティークに恨みに似たものさえ抱いた。
そんな折り、不寝番がマナとティークの担当になってしまった。王都はもう間近だというのに。マナと共に不寝番をつとめるはずのセシルの懐妊が発覚したため、当番が入れ替わったのだ。他に人員がいないので仕方がない。そう思うかたわら、みっともなく緊張している自分を知っていた。
緊張しているのはティークも同じようで、みなが寝入ってから一言も話さない。
無駄に火をつついたりして、落ち着かない様子だ。
「……火、消えちゃうわよ」
耐えかねてマナが声をかければ、ほっとしたような怯えたような、その両方をしそこねたような表情をした。
それが何とも言えず面白かったので、魔女は小さく吹いた。
それを見て、ティークもようやく表情を緩める。残念ながら、元々彼の顔は長時間引き締められるようにはできていないので、ちょうどよかっただろう。
「怒ってない?」
「怒ってたのはティークでしょう」
「そうだけど…マナも怒ってたよ」
「それじゃぁ、おあいこね」
今自分はちゃんと微笑えただろうかと、マナは考えた。小さく頷く彼を見て、どうやらそれは達成できたらしいと知る。
それからは少しだけ、話が弾んだ。お互いにどうにかして、昔のように振る舞おうとしていたから。
やがて月が中天にさしかかると、ティークが船を漕ぎだした。遠征に出てからはりつめっぱなしだった緊張の糸が緩んだのだろう。マナは少し眠らせてあげることにした。
その寝顔を横目に見ながら、マナは考えていた。
なかったことにしないで欲しいという、彼の訴え。果たしてどう応えるべきなのだろう。
ティークは安らぎをくれる。
それはかつて黒い鎧と深紅のマントに守られていた頃のものとは少し違っていた。けれど同じように心を溶かしてくれたものだ。
ティークがくれるものと同じものを返せなくても、いいのだろうか。
胸の奥には、まだ彼がいるのに。
思考の海に深く深く沈みこんでいたせいか、霧が出始めたのに気付くのが遅れた。
白く、霞む。
ティーク、と呼び掛けようとしたが、その姿は白に紛れて見えなかった。唇が震えて声にならない。
私は、ひとりだ。
今までにも霧や、吹雪の中を進んできた。けれど傍らには必ず誰かいた。仲間が、ティークが。
マナは頭を抱えこんだ。霧を晴らす呪文を思いだそうとするが、カチカチと鳴る歯の根が邪魔をする。この白は、いけない。思考も気力も凍りつかせる白に似ている。こんなときに盗賊団が現れでもしたら。
マナは声をしぼりだそうとする。
どうにかして瞼の裏によみがえる残影を振り払おうとする。
だが人影が黒く映り、緋色ばかりが鮮やかな、白の世界。その世界ばかりが視界に飛び込んできて、己は一人なのだと囁きかける。誰一人守れぬのだと責めたてる。
マナ。
呼ばれた気がしてすがりつくように薄目を開けば、黒い鋼に覆われた足を見る。はじかれるように顔をあげた。
「ヴェル」
知らず、名を呼んでいた。
目の前の彼はあの時から何も変わらない。短く切り揃えられた黒髪に、灰色の中に青玉をひとつ落としたような瞳。何も変わらない。自分ばかりが年をとった。当たり前のこととはいえ、それはあまりに遠い。
手を伸ばそうとした。
けれど全身が鉛のようで、視界にその姿をとらえるので精一杯で。
その代わりに、彼が手を伸ばしてきた。
武骨な手が頭をぽん、とたたく。どこか幼子に言い聞かせるように。あまりにも優しいから、胸が痛くなる。
そのまま、彼の微笑みが白く霞みだした。
追い掛けようとしてやはり動かぬ体に、マナは叫び声をあげる。
「待って!」
そこで、はっと目が覚めた。
幾度か瞬きをしてみて、あの白がどこにも見えないことに気付く。夢を見ていたのか。都合のいい夢を。
慌てて見渡してみれば、うたた寝していたのは一瞬だったようだ。火に変わりはない。ティークも眠っている。
無意識に、髪に触れる。
きっとあれはただの夢でしかなくて、これは感傷でしかないのだろう。だがマナはそう思っても、言葉がこぼれるのを止められなかった。
「もう、いいの…?」
応えはなかった。
ただ朝日が空を焼いて、風がふいて、マナは静かに泣いた。
王都へ帰りつくと、懐妊の発覚したセシルはクロイツに背負われるようにして実家へ向かった。他の面々も思い思いに散っていく。初遠征を終えた双子、ライセとイツセの面倒を見やりつつ、マナはティークの姿が見えないことに気付いた。
あの夜営のあと、どうにも心がざわついて、ティークにうまく接することができなかった。遅まきながら、様子を確かめたかったのに。
「あ、クリス、ティークを知らない?」
通りがかった聖騎士に問う。
クリスは弓使いの名を聞くと何とも微妙な顔をした。
「どうしたの?」
「いや、奇妙な願いことをされて…」
「奇妙?」
「その…殴ってほしいと」
「は?」
喝を入れてほしいとか、そんなことだろうか。
「私にひどいことを言ったから、と」
「言われたの?」
けれどクリスは覚えがないと首を横に振った。
ますます意味が分からない。ティークには殴られて喜ぶような趣味はないはずだが。
「それで、殴ったの」
その問いに対して、困ったようにクリスは頷いた。
「どうしても、と言うので。あまりにも必死に頼まれてな…」
「……それは、なんというか、災難だったわね…」
「手加減はしたんだが」
「それで?」
「ありがとうございました、と叫んで町中へ走っていった」
「………」
もはやマナは言葉もなかった。彼の思考回路はいまいち謎だ。
額に手を当てて溜め息をこらえていると、そうだ、とクリスは声をあげた。手紙を預かっている、と懐から微妙にくたびれた紙を取り出す。
「渡すように頼まれたあとに殴れと言われたから、危うく忘れるところだった」
礼を言って受けとった。首を傾げながら手紙を開いて、その悪筆に苦笑する。ユーゲンと二人並んで文字を書くとき、二人とも同じようにしかめ面をしていたものだ。
「……夕暮れ時、街を一望できる丘の上…?」
果たしてそこに何があるのだろう。
分からないと言った風に呟くマナに、さしものクリスも引きつったような顔をした。ティークへの同情を胸に。
マナは王都を一望できる丘へと向かっていた。日は徐々に沈みだしていた。
少しずつ、家々が小さくなっていく。立ち並ぶそれらが何か美しい生き物のようで、マナは瞳を細めた。歴代の騎士団員たちが愛してきたのも納得がいった。
丘の上では遠目にも確認できるほどの長身が手を大きく振っていた。周囲には誰もいないが、どことなく気恥ずかしい。
小さく手を振り返して、小走りになる。
ティークを見上げる距離まで近付くと、彼は嬉しそうに笑った。その笑顔が妙に眩しい。
なんの話かと問おうとしたところで、ちょっと待ってと遮られてしまった。
「どうしたの?」
「少しだけ向こう見ててくれる?」
「いいけど…」
何やら背後でガサガサ音がしている。さしものマナも何となく察しがついた。振り返りそうになって、慌てて街の方に向き直る。
「もういいよ」
マナは一呼吸してから、ゆっくり振り向いた。
目を見開く。
ティークは腕一杯に花を抱えていた。こぼれてしまいそうなほど、沢山の花を。白い花だった。
「白い花が好きなのかと思って」
不安そうに、どこか怯えるように彼は言う。
弓使い特有の大きな体を窮屈そうに折り曲げて、更にうかがうような視線が体を小さく見せていた。それでも自分よりはよほど大きい。
ティークが抱えているのは白い花だけだったが、種類は様々だ。大きな花びらをもつものから、香りの強いものまで。ちょっとやそっとじゃお目にかかれないものまであった。きっと王都中を駆け回ったのだろう。そうでなければ、こんなには。
「あと、遠征で見掛けた花は押し花にしてみたんだけど…」
器用に片手で花を抱えなおし、包みを取り出す。思わず受け取って見れば、グランタロスのほとりでしか採れないものや、レヴァスの絶壁にしかないものまであった。そしてやはり、全てが白い花だ。
この白は、知らない。
マナは鼻の奥がつんと痛むのを感じた。
この白は、怖くない。
視界が霞む。白に霞む。あたたかく、優しい白に。
「ご、ごめん!」
大きな瞳から涙をこぼす魔女を見て、ティークは途端に慌て出した。顔は蒼白だ。きっと傷付けたと思ったのだろう。
違うと言いかけて、けれどそれはちっとも音になってくれなかった。
「ごめんマナ、ごめん…」
ティークは謝る。
なにも悪くなんてないのに、他に口にできるものなんて知らないという風に。今更なくなるわけでもないのに、背後に腕を回して花を隠してみたりする。捨てないのが彼らしい。
マナはかぶりをふった。
「マナ?」
けれどそれだけでは彼には伝わらない。
この胸を深く満たす感情は伝わらない。
だからマナは、彼が隠してしまった花ごと、ティークを抱き締めた。
馬鹿ね。
そう口にしながら。
困惑したような彼の声が自分の名を呼ぶのを聞きながら。
涙もすっかり止まって、変な姿勢で立っていたティークの腰が悲鳴をあげだしたころ、マナは白い花束に顔をうずめた。
花たちは少しくたびれてしまっている。
ティークはさきほどまでの触れ合いをどう解釈するかで大急がしだ。頬が赤い。
マナは笑う。
「ねぇティーク、今度は私から赤い花を贈るわ」
赤い花は、愛を捧げるためのもの。
困惑に止まった表情は、意味を理解していくうちに歓喜のそれへ。
満面の笑みが咲き、喜びにティークは叫んだ。
「やったーーー!!!」
拳を振り上げ、誰かを探すようにキョロキョロと辺りを見回す。
「ああっもう、なんでここに誰もいないわけ!? なんで今の聞いてないかなぁ!」
子どものようにどうしようもないことを言って、もう一度町中へ向けて喝采を叫ぶ。それだけでは飽きたらず、マナを抱えあげてくるくると回り出した。彼女は慌てて落ちそうになる花を押さえ、呆れたように笑い声をもらす。
そしてふと思い付く。
ヴェールの代わりに、白い花の冠を作ろう。自分のと、彼の分も。それで充分。ティークは照れて嫌がるだろうが、きっとつけてくれるだろう。
少し早い計画を乗せて、笑い声が空高く響いた。
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