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クリス・メルヴァイクは騎士団本部の老朽化した廊下を、足早に歩いていた。
ぎしぎしと、足元の板が悲鳴をあげる。けれど彼女はそれには頓着しない。それは今彼女の頭を占めている知らせに比べれば、極々瑣末なことだったからだ。ただ足だけを動かしてついに目指していた部屋にたどり着くと、波立つ心そのままにノックをした。
部屋の主の返事はすぐに返ってこない。それはいつものことだった。勝手に入ろうかと考えて、そこで己の惨憺たる有様に我に返る。髪はほつれ、息はあがり、さぞやみっともない顔をしているだろう。慌てて手で撫で付ける。呼吸を整える。
「……どうぞ」
どこか間延びしたような応えが、そこでようやく届けられる。クリスはふっと一つ息を吐くと、部屋に入った。
そこには想像と寸分たがわず、普段から猫背気味の彼が私物の山に埋もれていた。もう70年の歴史を誇るセルシウス騎士団の古株、ユーゲン・シャンルンは魔術師らしく魔術書の数々と格闘している。何冊も床に積み上げて、何かを思案しているようだ。
クリスは口を開き、そしてまた閉じた。
ここにきてクリスは、何を言うつもりだったのか皆目分からなくなってしまった。いや、最初からそんなものはなかったのだ。聞かされた知らせに驚いて、いてもたってもいられずに本部へ走ってきたのだから。
言葉を失ってしまったクリスを訝るでもなく、ユーゲンは「ちょっと待っててね」などと生来の呑気さをおしげもなく晒す。最初から、慌てているのはクリス一人だ。いつもどおりの彼の姿に、どうにか表面だけでも取り繕うことができた。
「なにをしているんだ?」
「うん、ちょっとさすがに物が多すぎだから、整理をね」
言いながらようやく一段落ついたのか、魔術師が聖騎士を視界に捉える。
「で、なんだったっけ。って、今日は鎧じゃないのかい?」
「あなたが」
珍しいね、と続けようとした声に、クリスのかすれた声が被さった。遮らなければ、いつまで経っても言えない気がした。
「……その、騎士団を去る、と聞いた」
言葉が喉の奥で引っかかる。真偽を確かめに来たはずなのに、否定の言葉が聞きたくてここに来たはずなのに、言葉にしてしまったらそれは別の姿を取った。
クリスの願いも虚しく、魔術師はバツが悪そうに笑った。ゆったりと。
「あー……ティークあたりがバラしたのかな? まだ正式発表じゃないのに」
「本当、なのか」
どこか呆然としたような問いかけに、意識されないで発せられた呟きに、ユーゲンはようやく身体ごと年若い聖騎士に向き直った。たったあれだけの言葉から、彼は何かを感じ取ったのだろうか。常ならば燃えるように恥ずかしいはずのそれが、今は哀しく感じられるのは何故だろうか。
「次の祝福の日、エンライ家の双子がやってくるだろう? 僕は引退さ」
穏やかに笑ってみせる彼が、まるでこれは現実なのだと突きつけているように見える。こんな時まで余裕のある様が、ひどく腹立たしい。
分かっている。否、分かっていた。
彼はもう43歳になる。かつてはものともしなかった行軍中に時々辛そうに息を吐いているのも知っている。魔術にも以前ほどのキレは見られない。人は誰しも老いという波には逆らえない。もう潮時なのだ。祝福するべきだろう。人生の半分以上を騎士団に捧げた勇者に、惜しみない賞賛と感謝を捧げるべきだ。
胸の奥で、何かが暴れだす。熱く胸を焼くそれが、そのまま口から迸ってしまいそうだ。
けれど聖騎士の誇り高い魂が、それを許さなかった。無様に泣き喚くことも、分別なく取り乱すことも。ただ言葉が枯れつくしたように、喉が酷く渇いていた。
立ち尽くすだけの聖騎士を気遣ったのか、ユーゲンは困ったと言いたげな声を出す。
「それでまぁ部屋の整理をしていたわけなんだけど、どうにも片付かなくてね。僕って片付けってのがどうしても苦手で。手伝ってくれないかな?」
「え?」
「あっ用事があるなら断ってくれて全然いいよ」
「いや、手伝おう」
慌てたように言うユーゲンに、クリスは反射的に応えていた。考えての返答ではない。いつだってそうだった。何かをよく考えて、彼のそばにいたわけじゃない。
「ほんとかい? ありがとう、助かるよ」
向けられた笑顔に、胸の奥がギシリと音をたてた気がした。
「ここでどうやって寝ていたんだ?」
彼の部屋は書庫のようだとは知ってはいたが、いざ掃除を始めてみると思いもよらないところから本が溢れ、下手に動けば積み上げた本の山が崩れそうだった。寝台の中から分厚い本が出てきたときについに感嘆とも呆れともつかぬ息を吐けば、ユーゲンは恥ずかしそうに頭を掻いた。
「同居人がいた頃はちゃんとセーブしてたんだけどね、彼が結婚して出て行ってからタガが外れたというか」
「買い漁ったわけか」
「あっでも、ちゃんと最低限のスペースは確保してたよ?」
彼が言うとおり、寝るスペースはあるようだった。ただ物―――主に本だが、それが妙に圧迫感のある部屋にしてしまっていた。その寝るための場所でさえ、小柄な彼が更に小さく身体を縮めてやっと寝れるといった具合だ。
本、本、とにかく本。クリスは目が回りそうだった。
「全部捨てるのか?」
「いや、本家にあげようかなって。甥っ子の役に立ててもらおうかと」
「……この量では、まるで押し付けるようだな」
「やっぱり? でも捨てるのももったいないんだよね……あ、欲しいのあったら好きに持って行ってくれてかまわないよ」
二人の作業は、とかく本を束ねることに終始した。口を動かしながら、ある意味では魔物よりも面倒な相手を攻略していく。明日には本家の使用人がやってきて、まとめて持って行くことになっているらしい。ユーゲンは時折懐かしそうに手を止める。何の変哲も無い本に見えるが、彼にとってはそうではないのだろう。本ではない物が発掘された時は尚更だった。クリスは声をかけられなかった。目の前にあるのは、20をようやく過ぎたばかりの小娘には到底及びもつかぬ、膨大な記憶だった。そこで二人が共有できているものなど、一握りしかない。その一握りしか、クリスは知らなかった。
整理されていく本の山の隣に、彼が遠征で使っている鞄が転がっていた。その隣には、小さな袋が二つほど。あれだけを供に、ここを去るのだろうか。
「随分、身軽なのだな」
気づけばそれを見つめたまま、呟いていた。
ユーゲンは聖騎士の視線を追い、納得したように声を漏らした。
「人間なんて、鞄一つでどこにだって行けるからね」
「王都には残らないのか」
「うーん、時折顔を出したりはするかもしれない。でもきっと、王都を終の棲家にはしないだろうなぁ」
ああ、まただ。
クリスは悲鳴をあげた何かを、胸の奥に押し込めた。
「……では、どこか行くあてでも」
「いや、しばらくはふらふらするつもりだよ。僕はどうやら旅が性にあっているようだから」
「そうか」
気落ちしたのがそのまま表情に出ていたのだろう、ユーゲンは安心させるように笑った。
「大丈夫だよ。僕らの騎士団は強い。そして君はとても勇敢で、誇り高い聖騎士だ。新たにやってくるサムライも、若いけれど才能に溢れてるに違いない。僕が抜けた穴を補って余りある。不安に思うことはないよ」
違うのだと、叫べたならどんなに良かっただろう。
何が違うのかを上手く説明できなかったとしても。
「……慣れ親しんだこの場所を離れるのは、とても淋しいけれど。でも僕はこれっぽちも不安なんかじゃないよ」
顔を上げろと、クリスは己を叱咤する。
寄せられるのは、紛れもない信頼。命を預けあう中で育んだ、確固たる絆だ。ここまで言ってくれたのだ。聖騎士の、戦う者の誇りを思い出せ。彼の隣に立ち続けた己の矜持を。
―――顔を上げろ。
「ユーゲン、あなたの信頼に私は必ず報いよう」
幾分震えてはいたが力強いそれに、去りゆく魔術師は嬉しそうに微笑んだ。
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「では団長、長らくお世話になりました」
よく晴れた空の下、ユーゲンは団長に頭を下げた。騎士団本部の玄関先で、団員達が鈴生りになっている。騎士団団長であるデューク・ロキは兜を脱ぎ、普段は隠されている力強い視線で魔術師を見つめた。
「世話になった」
短すぎる別れの言葉を、哀しいとは思わない。この青年は昔から本当に寡黙なのだ。彼が入団してくる頃から、ユーゲンは彼のことを知っていた。まるで昨日のことのようだった。
「あなたのことは生涯忘れぬ」
差し出された手を、ユーゲンは強く握る。
それが合図となったかのように、後ろに控えていた団員がわっとユーゲンを取り囲んだ。もみくちゃにされながらも、ここにはいない団員が気にかかって仕方がなかった。
「クリスはどうしたんだい?」
「それが見当たらないの。今日出発だよって伝えておいたのに」
どこか怒ったように呟くのは、3年前に入ったばかりのニンジャだ。
「大丈夫だよ、クリスとはもうお別れをすませてあるから」
きっと別れに沈む顔を見せたくないのだろう。ここに見送りに来てくれている面々の中にも、涙に目をうるませている者がいる。自分もこれ以上いたらもらっちゃうな、とユーゲンはひとりごちた。
「じゃぁ、そろそろ行くよ。みんな、元気で!」
笑顔で手を振り、馬車の待つ門近くまで振り返らずに歩く。後ろから、仲間達のあたたかい声が追いかけてくる。
泣くな、と言い聞かせる。
自分にとって、騎士団はまぎれもない故郷だった。だからこそ振り返ってはならないし、涙を見せてはいけない。これは門出なのだから。いつか骨となり騎士団に還るその日まで、自分は旅に出るだけなのだ。
そう必死に言い聞かせていたおかげだろうか、馬車に乗り込む頃にはなんとか落ち着きを取り戻していた。そっと息をつき、硬い背もたれに身を任せる。馬車は祈りの日に向けて少しずつ騒がしくなり始めている街中を抜け、門に差し掛かる。幾たびここから遠征へ出ただろうか。幾人の仲間とここをくぐっただろうか。
ぼんやりと物思いに沈む中で、城壁に突如、光が現れた。
否、それは光を発しているのではなく、陽光を集め、ユーゲンの行く先を照らしていた。まさかと思いながら荷台から身を乗り出し、目をこらした。あの輝きには覚えがあった。
戦いに身を置く中で、その清廉な力強い光に幾度見とれただろう。
―――クリス。
呟きは声にならない。
かの誇り高き聖騎士は城壁に立ち、自らの剣を天につきたてていた。何かを誓うように。祝福するように。
「……ずるいなぁ」
帽子が鼻までずり落ちた。けれど直そうとは思わなかった。頬をぬらす雫も。
馬車が森に差し掛かり、木々に遮られて見えなくなるまで光はそこにあり続けた。
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