|
まだ肌寒い季節に、一通の手紙が届いた。 それは懐かしい人からで、旅立つ背中を見送ってから一度も便りをくれない薄情な人だった。存外しぶとい性質だったから元気ではいるだろうと思っていたけど、ふと目が覚めて胸の奥が焦げ付く朝もあった。だから便箋の裏に気恥ずかしげに走り書きしてある名前を見たときは、慌てて開けようとして破りそうになったほどだ。 そんなに忘れがたい相手ならついていけばよかったのに。 誰かが酒の席でそう言った。自分でもそうだなと思うことはあった。後悔なら掃いて捨てるほどしてきたが、それは結果論だと知っている。 薄っぺらなそれの封を切ると、いささかカビ臭かった。ここにたどり着くまでに幾人もの手を経てきたのだと知れる。きっと彼は書いた手紙を長い間本に挟んだままにしていたに違いない。もう会えなくなって何年もたつのに、そんな姿を思い浮かべられる自分が心底不思議だった。 彼からの手紙は相変わらず解するのに少しの時間を要するような字で綴られていた。よく文字を書くのが途中で億劫になってしまうのだと言っていたのを思い出し、一人笑う。いつも文字を書く必要があるときには、なにかを憎むように、なにかに挑むように顔をしかめていたものだ。 クリスへ。 書き出しはシンプルだった。前略とか書き出さないあたり彼らしいような気がした。
クリスへ。
僕は今、イルグールにいます。退団してからというもの、あちこち気ままに旅をしています。旅先で知っているはずの風景を見るたび、けれども一人では違ったように見えるのにも慣れてきたところです。そして新たな感慨を得るたびに手紙を書こうとペンを手に取るのだけれど、やはり僕は思うことの半分も紙に書き表せないようです。手紙は難しい。つい敬語になってしまいます。 手紙って何を書けばいいんだろう。本当に僕はこういったことに向いてない。こういうと、きっとみんなは連絡ぐらい普通に寄越せって怒るんだろうけど。 今でも騎士団での日々を思い出します。きっと一生忘れることはないんじゃないかな。不思議なもので、退団する前はすっかり忘れていたようなことを最近急に思い出したりします。それだけ騎士団の日々が充実していたってことだから、僕はそれを誇らしく思います。
水音がして読みにくい文字を追うのを中断すると、クリスは手紙を送り主の名前しか書かれていない封筒にしまった。 近くには沢がある。 入団してから、いや騎士団が発足した時からずっと続いてきた遠征という日常の中にクリスはいた。王都よりも幾分高いような気がする北アクラルの空を見上げ、息をついた。この手紙を受け取ったのはもう50日も前だ。彼はまだイルグールにいるのかと考えかけて、やめた。傍らの束ねた薪を見つめ、仲間と合流しようと腰をあげる。 気づけば彼の手紙はいつしか鎧の内側に縫い付けられるようにして、常にあった。 今のようにふと肩の力を抜いた時、そっと取り出す。そういうものだった。彼の書く言葉たちがそばにあるというのは不思議な安堵と少しの寂寞をもたらした。 戦っている時、今はない彼の補助魔法が力を与えてくれているような気がすることがあった。気のせいには違いながったが、嬉しかった。けれど彼の補助の秀逸さを思い出すにつけ、自分の未熟さと未だ忘れられぬ女々しさに腹が立った。 「それは覚えていていいんじゃないの」 ふとそう漏らすと、共に夜番にあたるニンジャが呟いた。 彼の見送りに来なかった自分を真っ向から詰ってきた彼女とは、もう7年の付き合いになる。その間に彼女は団長と所帯を持ち、自分とは背中を預けあう姉妹のような間柄になった。 「全てを忘れたいわけではないんでしょ」 「そうだな」 「だったら小難しいこと考えてないで、さっさと行動しなさいよ」 ぴしゃりと彼女は言ってのけた。このニンジャはいつだって真っ直ぐな言葉を紡ぐ。 その言葉をあの頃聞けていたらどうなっていただろうかと考える。 あの頃の自分は、縮めようのない距離や悠然と横たわる時間に足踏みをしていたに違いなかった。胸を焼くそれが何であるかを考えようともせず、ただ押さえつけることしかしなかった。 暴れる心を押さえつけて彼を見送って、数年を過ごした。彼のいない風景にも随分と慣れてしまった。静かな境地を得られたと思ったのは勘違いでしかなく、あの想いはなだめすかされていただけだった。 彼から手紙が来て、それを思い知らされてしまった。 「時間が経っても忘れられないことがあるって、きっと悪いことばかりじゃないわ。忘れたり、歪んでしまう記憶の方が圧倒的に多いもの。後ろ向きなわけじゃない。…彼女の受け売りだけど」 そう言ってニンジャは眠る巫女に目を向けた。その巫女は「若返り」だった。だからこそ余計に説得力があった。 きっと自分は愚痴りたいだけだったのかもしれないな、と自嘲した。思えば呑気なことだ。数日中にはオスト村に出現したおそらくアグレスだろうと思われる魔物と戦うのに。 クリスは黙って夜空を見た。耳を澄ませば、火のはぜる音と仲間達の寝息と守るべき世界の気配がする。この風はいつか彼の元にも届くだろう。まったく同じものではなくとも。空には終わりがないから、繋がっているといえる。
旅先で、君たちの活躍をよく耳にします。同時に魔物の猛威も。世界は暗澹たる空気に包まれていく気がしてならない。けれど同じくらい、セルシウス騎士団がある限りまだ大丈夫だという気もしています。ほとんど確信といっていいかもしれない。 遠くの空から、君たちの無事と勝利を願っています。これからもずっと。
鎧の上から手紙に触れ、彼に恥じぬように生きなければと強く思った。 そして王都に帰還したらたとえ届かないかもしれなくても返事を書こうと決めた。
剣先に自分の魔力を集中する。 それが目の前の背中に向けられると、ニンジャの身体はうっすらと光を帯びた。そのまま放たれたクナイは、確実にアグレスの目を射抜く。痛みに激した魔物がところかまわず攻撃するが、クリスの作り出す防護壁に阻まれてあっけなく霧散する。 団長のよく通る声が交代を告げた。 クリスはそのままアグレスの目の前に躍り出た。身の丈は4倍だ。けれど臆することはない。サムライが抜刀し、アグレスに致命傷を与える。きっと少し後方にいるアーチャーが止めを刺すだろう。普段はへらへらしている彼だが、やるときはやる。 矢は確実に魔物がかばう部分へと突き刺さった。 これで終わりかと思ったそのとき。 アグレスの長い手がのびた。 それがひどくゆっくりしたものに感じられ、けれどもクリスは避けるという選択肢を思い浮かべることができなかった。きっと長年の戦闘経験と仲間の補助に最悪の事態は避けられた。けれど視界は真っ赤に染まった。 誰かが叫んでいた。 顔から手を引き剥がされた。 自分の拳が誰かを殴ったようだった。 アグレスの断末魔が聞こえたところで、ふつりと意識を失った。
暗い海を泳いでいる。 そこにはなにもなく、身をひたしているのが液体かどうかさえ判別できなかった。 しばらくがむしゃらに前に進もうとしていると、ふと自分の顔が映っていることに気づいた。暗いそれに映るなど不吉である気がして目をそらしかけ、凍りついた。顎から額にかけて一筋の赤が走っていた。目は潰れている。けれどもそれはまぎれもなくクリス自身の顔だった。 途端に激痛が右目を襲った。 痛みというよりは熱が感覚の全てを支配していた。 クリスはそのまま痛みのままにもがき、暗闇に身を沈めていく。けれども沈む先から呼ばれている。そのまま無心に手を伸ばし、そしてそこで目が覚めた。 「クリス?」 視界がぼやけすぎていて、頭と目むしろ顔全体が熱の塊になったようで、最初は呼びかけられていることすら分からなかった。それが友であるかすらぼんやりとしか意識できなかった。 もう騎士団にはいられない。 それだけが妙にはっきりと意識の底にあった。
「どこかあてはあるの」 青空の下、わずかな荷物だけを背負う自分に拗ねたように友は尋ねてきた。片目を失った聖騎士が退団するしかないと頭では分かっていても、やはり淋しいのだろう。彼女はどこかそんな風に子供っぽいところがあった。クリスは苦笑しつつ、言葉を音にのせる。 「イルグールへ」 「そこになにがあるの」 「何もないかもしれない」 「なにそれ」 ニンジャは本格的に拗ねたようだった。 何もないなら王都に残ればいいじゃない。 今にもそう聞こえてきそうだ。確かに実家は王都にあったし、別に相続問題だとかがあるわけでもない。待たせている夫などもない。 けれど向かう先には彼がいる気がした。いてくれないかと期待していた。 不思議なもので、クリスはそうするのが自然なような気がした。 口先だけでも何かを約したことすらなかったというのに。二人の間には何もなかった。交わされるべき何かなど。あるのは一方的な誓いだけだった。でも、それももう随分前のことだ。 「あまりクリスを困らせるな」 睨みつけるようだったニンジャに声をかけたのは、夫たる魔騎士だった。セルシウス騎士団の団長でもある。その彼を面白くなさそうに見やると、ニンジャは泣きそうな顔をごまかすように怒った顔を作った。 「手紙、書きなさいよ」 「約束しよう」 しっかりと頷くと、友は堪え切れないといったように肩口にしがみついてきた。他の団員がいないからか、彼女は存分に泣いた。見送りは不要だといったのに、友は聞かなかった。けれど一人で泣かせてしまうよりは良かったかもしれない。 やがて泣き止むと、ニンジャは静かに身体を離した。 またな、と声をかけると顔をうつむけたまま大きく頷いた。そのまま団長に礼をとると、クリスは陽光に照らされた道を歩き出した。すると声が追いかけてきた。 「ユーゲンと仲良くやんなさいよー!!」 思わず振り向いて、大きく手を振るニンジャを見た。 小さく手を振り返して前に向きなおって、歩き出した。クリスは少し、笑った。 手には彼からの手紙があった。
追伸。 知っているとは思うけれど、常霧の海に面している港には灯台があります。誰かが必ずその火を見守り続けています。僕はそれを見るのが好きです。絶えず船の行く末を照らす灯台を見て、急に君を思い出しました。あの光は君に似ている。そんな気がしました。だから僕はこうして手紙を書いたのかもしれないと、そう思います。
|