Nemo ante mortem beatus
01

 心が剥がれ落ちていく。
 それはまるで夢を見ているかのように緩やかに、けれど有無も言わさぬものだった。そんな悪夢のような感覚を、ルネは目覚めながらにして常に感じていた。
 だから川に飛び込んだはずの己が身を寝台の上に見つけたとき、ルネはまたその悪夢がはじまってしまうのだと思った。そこから逃げようと、逃げ切れぬのならいっそ死んでしまおうとすら。そんな風に自身を追いつめた場所へと舞い戻ってしまったのだと、そう思った。
 身体は思うように動いてくれなかった。ゆっくりと意識を行き渡らせるように身じろぎすると、どうやら足が固定されているらしいと分かった。動かそうとすると痛みがある。身体のあちこちから悲鳴があがったが、左足のそれ以外は我慢できる範疇のものだった。時間をかけて身体ごと視線をずらすと、左足は折れてしまっているらしい。簡素な添え木がしてあった。道理で痛いはずだと、ひとりごちた。身体の節々が痛むのは打撲だろうと検討をつける。
 首をめぐらせてみると、拘束されているわけではないのが分かった。この足では逃げられないと思ったのだろうか。どうにか半身を起こし、そこでようやく室内の様子を入念に観察することができた。
 そこはルネの予想とは違い、また彼女の過ごしてきた環境とは違い、ずいぶんと小さい建物だった。はっきり言って見覚えはない。何もかもが小作りな調度品から、大雑把さが滲み出るように物が氾濫している。天井から無造作にぶらさげてある燻製、部屋の隅に積み重ねてある衣類、棚から今にもこぼれ落ちてしまいそうな何かの実をつめた袋。生々しい生活感というものを、ルネは初めて目にした。彼女が今まで知っていたのは、何もかもがきちんと収められ、塵一つなく、あたかも不浄なものを徹底的に取り除いたいと言わんばかりの場所だけだった。
 壁に立てかけてあった棒に目にとめると、ルネはそれを支えにしてどうにか立ち上がろうと試みた。足の骨を折るということがどういうことか、分かっていたとは言いがたい。案の定、彼女は痛みに息をつまらせ、あっけなく床に倒れこんだ。膝から下に強烈な痺れが走り、それは瞬く間に痛みのかたまりとなった。
「起きたのか」
 痛みに悶絶している間に、誰かが部屋に入り込んでいた。涙を浮かべながら、ルネは青い瞳をその男に向けた。痛みで視線が揺れ、扉の先には新たな部屋ではなく太陽の光があるのだと知った。小屋と呼べる建物に入っていたのだと、呑気にもそう思う。
「大丈夫か。まだ立てないだろう」
 男はいっそ事務的とすら言っていい口調でルネの腕をとり、立ち上がるように促した。少し動かしただけでも痛みが走る。全ての動きが骨に伝わって、そこから炎を生み出すようだった。逆らう気力はなく、そのまま寝台に逆戻りすることとなった。
「ここはどこ」痛みがどうにか落ち着いてから、ようやく問いを唇に乗せる。「あなたは誰なの」
 彼はひとつ息を吐くと、川の中洲に引っかかっていたのだと教えてくれた。彼が見つけたときには虫の息で、丸三日間眠っていたと。その言葉に嘘はないとルネは判断した。どうやらルネを捕まえてどうこうしようと思っているわけではないらしい。
 少なくとも、現時点では。
「足の骨が折れてる」それは見れば分かるとルネは言いかけた。彼は続けた。「全身は打撲だらけだ。肋骨にひびも入ってる。呼吸が苦しいだろう?」
 言われてみると不思議なもので、さっきまで微々たる気配しかなかったそれは、もはや彼女の認知下だった。男はすっかり血の気の失せたような肌に何の表情も乗せず、ただ事務的な口調で負傷箇所を説明する。
「熱もあるな」
 恐ろしいくらいの白い肌は、きちんと暖かかった。額に手を乗せられて初めて、覗き込んだその男の瞳が赤いのだと知った。まるで血のようだと。それをルネは恐れなかったが、触れた場所から哀しさが伝わってきて、思わず目を見開く。底知れぬ、深い哀しみだった。
 男は目を伏せた。そして早く治したいなら寝ていろと言って、また小屋の外へと出て行ってしまう。一人取り残されて困惑したが、さきほど無理して動いたせいで猛烈な眠気が襲ってきていた。眠気というよりは、気絶に近いそれだったが。
 寝台に横になると、確かな生の証としての痛みを感じた。けれど同時に、死を連想させるような気配がルネを覆い隠そうとしていた。眠ってしまったら危険だと思うのに、瞼は重くなる。
 彼女の心は早く逃げるべきだと言っていた。彼女の身体は今ここを出たら死ぬと言っていた。
 彼女の運命は、ここにいろと言っていた。



 それからまた二日ほど、熱に浮かされて過ごした。
 夢うつつの中で、男があれこれと世話を焼いてくれているのが分かった。寝返りをうてない代わりに身体の向きを変えてくれたり、汗をふいてくれたり、水を飲ませてくれたりした。朦朧とした意識の下では頭など回るはずもなかったが、彼女はそれらすべてをどこか遠くから見ていた。
 彼はとても静かだった。静かに、ただひっそりと暮らしていた。まるで息をひそめて、そうしていつか止まってしまっても構わないといった具合だった。
 それはルネが起き上がれるようになってからも変わらず、小屋の中に二人きりであるというのに会話すらなく、ルネが危惧していたような無体な真似もなかった。時間が経つにつれて、彼から発せられる気配にもすっかり慣れた。使い古したような寂しさと、降り積もった哀しみと、行き場を知らぬ怒りが同居したような、そんな独特の気配。その中で息することに慣れてしまえば、ルネは自然と男に対して警戒心が薄れていくのを自覚せざるをえなかった。
 ルネはそれを『風』と呼ぶ。
 誰かとすれ違ったとき、触れ合ったとき、それはルネの元に運ばれてくる。それはまさしく風といったような具合で、彼女にはそれ以外の呼称は思い浮かばない。それはその人物の感情や人となり、または過去や未来といったものも一緒に運んできた。見えるというよりは感じ取れる。自分の中に入り込んで、あたかもそれを体感したのは自分であるかのように感じる。男に対しても同様だった。
 男が今まで感じて積み重ねてきたものを、薄皮一枚越しにうかがっている。触れたら熱いか冷たいかすら分からないから、ルネは近付かないようにしていた。ただ男が悪人ではないのだと、それだけを感じながら。
「あなたはずっとここにいるの?」
 体調のほうが安定してくると、ルネは会話をしてみようという気を起こせるようになった。それまではとにかく、長い時間起きているのが辛かった。時間に余裕ができてくるとやはり無言でいるのは淋しく、そしてとにかく安心したかった。足は相変わらず動かなかった。いつ追っ手が小屋に押し入ってくるか分からなかった。いつ男が心変わりするか分からなかった。なにもできない自分がたまらなくもどかしかった。そういった余計なことを考えないために、彼女には会話が必要だった。
「生まれてからずっと、ってわけではない」
「ずっとひとりだったの?」
 ずっと、ずっと。問いはそればかりだ。それほどこの小屋は年季が入っていたし、男からは人間というよりはある種の樹木のような気配がしたから。何より会話をしてみたいと思っても、普通の会話というものをあまりしたことがないルネにとっては、少し難しかった。
 男は質問には答えなかった。答えたくないのかもしれない。ルネは戸惑った。
「そういえば私、あなたの名前知らないわ」沈黙に耐えかねてそう言ってから、はたと自分も名乗っていないことに気付く。この小屋では名などなくとも、すべてが事足りていた。「私はルネよ」
「……ブラッドだ」
 名乗られてしまったからには仕方ない、といったような調子だった。そんな小さなことが嬉しくて、自分で思う以上に淋しくて心細かったのだと、ルネは思い知った。
 ブラッドは奇妙な男だった。
 死人のように白い肌に、血のような瞳といったような外見もそうだが、なにより雰囲気が今まで接してきた人間とは明らかに違っていた。もっと、深い。彼女にはそれ以上どう形容すべきか分からなかったが、確かにそう感じていた。彼から漂ってくる風は、安らかに眠りにつけるように温かいときもあれば、胸をかきむしられるほど切ないときもあった。ルネは努めて、彼の風に触れまいとした。直に触れてしまえば、その根源を覗くことはできただろう。けれどそれは失礼にあたったし、怖くもあった。何よりルネはそういった自分の能力のことは忘れて生きていきたかった。そのために逃げ出したのだから。
 一旦話すようになってしまえば、波間にゆられていたような孤独は落ち着きを取り戻した。それまでルネが知りもしなかったような世界のこと、たとえば花の名前や食べられる植物についてなど、そういった他愛のないことばかり話した。足も順調に治ってきた。
 ブラッドは過去のことについては貝のように口を閉ざしていたけれど、だからなのか、彼女の境遇について問いかけてくることもなかった。このまま忘れてしまえると、都合よくそう思っていたのは否めない。川の中に飛び込んで生死を彷徨って、それで本当に一度死んでしまったように錯覚していた。
 また新しい生を歩めるのだと。
 けれどそんな思いを嘲笑うように、影が忍び寄ってきた。逃しはしないと。


     *


「栗毛の女を見なかったか」
 ある日、小屋の外でそんな野太い声が響いた。ルネはちょうど外へ出ようと扉の前にようよう立ったところだった。剣呑なその声に、ついていた杖ごと崩れ落ちそうになった。
 追ってきたのだ。
 追いつかれてしまったのだと、無情な声が脳裏に響く。追っ手は小屋の外で薪割りをしていたブラッドに話しかけたらしい。
「同じことを前にも聞かれたが」苛立ちを隠そうともしない声で、ブラッドは答えた。そんな声は、聞いたこともなかった。「小屋の中も見せてやっただろう」
 その返答に驚いたのは、扉越しに側耳をたてていたルネだった。前にも追っ手はやってきていたのだ。彼らの探し人がルネだと気付かなかったはずはない。かばってもらったのだろうか。信用してもいいのだろうか。考えはめまぐるしく駆け巡る。
「まったく情報がねぇからな」
 彼女は少しずつ扉から身体をずらした。音を立てないように慎重に。この小屋に隠れられる場所などないが、それでも足掻かずにはいられなかった。
「まさかあんた、かばってたりしねぇよな」
「なんのために」
「さぁね。かばいだてしてもいいことはねぇぞ」
 がちゃ、と金属がこすれあう音がした。それは幾重にも重なり、追っ手が少なくとも三人はいることを意味していた。とても逃げ切れない。ブラッドもあっさりと白状してしまうだろう。けれど彼は「見てない」と言った。淡々とした声音で、だが、と言葉を紡ぐ。
「あんたたちが探してる女のものかは知らないが、向こうの滝つぼでぼろぼろになった服を見つけたぞ」
「なんだと」
「それはいつのことだ」
「あんたたちが最初に俺に尋ねたあとだな」
「……嘘じゃねぇだろうな」
「俺はこれ以上は知らない。面倒事はごめんだ」
 ブラッドがそう言うと、奇妙な間があいた。ルネはただ縮こまり、その場から動くことなど考え付きもしなかった。耳を塞いで、ただ怯えていた。
 どれほどそうしていただろう。
 やがてブラッドが小屋に入ってきた。入り口のところで座り込むルネを見ると、淡々と「立てるか」と声をかける。他には何も言わなかった。
 差し出された手を見つめ、けれどもルネは尚一層うずくまった。きつくきつく目を閉じて、ただ一言、蚊のなくような声を絞り出すのが精一杯だった。
「―ごめんなさい……」
 ブラッドは、何も言わなかった。

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