|
息が苦しかった。
手足が自分のものではないように感じられた。確かにそれらは自分に属するものだというのに、一度でも立ち止まってしまったなら、たちまち切り離されてしまうような気がした。
ルネは走っていた。闇の中を、暗く閉ざされた森の中を。幾度細枝が白い頬をかすめ、幾度木の根が細い足首に絡み付いただろう。およそ身なりのよい少女には似つかわしくない暗闇を、彼女はひた走っていた。時折、追い迫る何かを確認するように振り返るほかは、たとえ皮膚が裂けても足が痛んでも走り続けた。
これは生きるための逃走だと、声にならぬ叫びをあげる。背後にはいくつかの光がちらつき、穏やかならざる声が響いている。彼らから、自分の運命から、ただ逃げるために走っていた。
けれどろくに体を鍛えたこともない少女が、いったいどれだけ走り続けられるだろう。気力だけではどうにもならないことがある。ついに足がもつれてルネは転んだ。
膝がじくじくと痛んだ。夜でなかったなら鮮やかな緋色を見ただろう。土の味がした。歯を食いしばり、どうにか彼女は体を起こした。
けれどもう走れなかった。声は迫ってくる。獲物を追い詰めようと、着実に迫ってくる。
涙が頬を伝っていた。いつから泣いていたのだろう。
けれど足を引きずり、またルネは前に進んだ。諦めたくなかった。諦めたら自分の魂が砕かれてしまうと思った。生きながら死ぬように、何も見えず、何も聞こえず、何も感じない闇に沈んでしまうと思った。そしてまさしくそのために、男たちはルネを追っているのだった。
心臓が暴れている。そのまま破裂してしまいそうだ。その方がどんなにか幸せだろう。
引きずった右足が枝を蹴りつけた。乾いた音の余韻が闇に消えたとき、ルネは立ち止まった。切り立った崖が行く手を遮っていた。彼女は立ち尽くした。絶望に声をあげることも忘れて。
「いたぞ、こっちだ!」
「追い詰めろ!」
背後では無情な声が響く。足元では荒れる水の音が響く。進む道はない。引き返す場所はない。
「捕まえろ!」
少女のほっそりとした輪郭を、光が撫でる。血の気の失せた顔がぱっと闇に浮かんで、そして消えた。
ルネは飛んだ。
「―!!」
声にならぬ叫びをあげて、ルネは目を覚ました。
荒く浅い呼吸を繰り返し、きょろきょろと目だけを忙しなく動かす。身体は縛り付けられたように動かなかった。やがて視界に見慣れた顔が現れると、ようやくルネは呼吸の仕方を思い出した。
「大丈夫か」
「ブラ、ッド……」
額に添えられた手に、ほうと息をつく。その手が冷たくて気持ちよかった。先ほどまで身体を支配していた重力はすっかり消えていた。熱があるのだろう、いつもの体調ならこんな軽い接触にですらブラッドの風を感じるのに、今はただ静かだった。
追っ手がやってきて、その精神的圧迫から熱を出してしまったのだろう。なんて軟弱なんだろうと、情けなくなる。
落ち着いたのを見てとったのか、ブラッドはゆっくりとルネに背を向けた。彼はどうやら着替えの最中だったらしい。いつもは初心なルネを気遣うようにして目の届かないところでそういったことは済まされていたので、そのときルネは初めてブラッドの背中に彫りこまれた模様に気付いた。大きな顔のような、どことなく恐ろしさを感じるような模様だった。
「魔除けね」気付いたら、ルネの唇から言葉がこぼれていた。服を着ようとしていたブラッドは、少し驚いたように振り返る。「あ、その、背中の刺青のことよ」
彼の身体には、多くの刺青が刻まれていた。それがどこまで広がっているのか、ルネは知らない。ただ腕にいくつも刻まれているのは見たし、なんとなくこれからも増えていくのだと了解していた。模様と模様との間には、これから先の出番を静かに待つような空白が数えきれないほどあった。
「そんなことを言われたのは初めてだ」
「あ、ごめんなさい。なんとなくそう思ったものだから。私、刺青とかよく分からなくて」
「いや、これを誰かに見せたことがなかった」
少なくとも、感想を求めるような意図や状況下では。
どう返したらいいものか考えあぐねるルネを気にした様子もなく、ブラッドは今度こそ服を羽織った。その段になって、ルネは恥ずかしくなった。思えば、他人の、しかも男の裸など数えるくらいしか見たことがない。正直に言えばもっとえげつないものなら、風のなかにまぎれていたことはあったけれど、そういうものは大抵ルネに強烈な印象を植え付ける以外の作用はもたらさなかった。嫌悪や恐怖、忌々しさとかいったもの以外は。
「刺青って痛いんでしょう」
「そうだな」
「自分で彫ったの?」
ブラッドは少し苦笑するようにして、「背中は彫ってもらった」と言った。けれど、そのすぐあとで後悔するような、どうにも飲み込めぬものがあるといったような顔をした。「……なぜ魔除けだと思ったんだ?」
ルネは困ってしまった。彼女にとって、感じとることは幸か不幸か得意であったけれど、それを言葉にできるかは別問題だった。
「なんとなく、だけど。彫った人はなんて言ってたの」
「さあ」
「知らないの?」
「彫ったあとすぐに死んだからな」
ルネは言葉につまった。こういった、人と人との間に差し挟まれる沈黙というものを、ルネはうまく処理できなかった。そんな自分が歯がゆかった。彼女が少しためらった後、たどたどしくした言葉は「守ってるように見えたの」だった。
「その刺青がまるで、あなたの背中を守ってるように見えたの」
彼に敵意を抱くものには、この上なく忌々しく恐ろしく映るのだろう。けれどルネには、そこに宿る祈りのようなものが見てとれた。
ブラッドはきつく眉根を寄せて目を伏せたあと、何も言わず小屋の外へ歩いていってしまった。なにかまずいことを言ってしまったのか。怒らせたのだろうか。傷つけたのだろうか。
ルネは初めて、ブラッドに触れたいと思った。
その背中に。その心に。
この頃は誰かに触れたいと思ったことはなかった。そう願わずとも、誰もが自ら触れてきた。見たものを教えろと、そう迫られた。あるいは誰もがルネを拒絶した。ルネ自らが、触れたいと思うことはなかった。願っても、直に触れて確かめたそれだけに、手ひどく打ちのめされるのが怖かった。裏切られるのはもう二度とごめんだと思った。両親のように。
この能力が憎くて仕方がなかった。
叫びたかった。認めたくなかった。確かに一人の人間として生まれたのに、どうして道具のように扱われなければならないのか。どうして憎まれなければならないのか。過去などいらない。未来などいらない。言葉や触れあいの中で語られるもの以外は、いらなかった。与えられるはずだった、あたたかなものは奪われた。望まずに与えられた、この「贈り物」のおかげで。
だから逃げ出した。暗い暗い夜、自分の命以外には何も持たず、ただ逃げ出した。またあんな奴隷のような日々に戻るくらいなら死んでも構わないと思っていたのに、その先で出会ったのは悲しい紅の双眸だった。
私は人間なのに、と。
言いたかった。言えなかった。
ブラッドに全部、ルネが歩んできて、押し付けられ、逃げ出したこと全てを。
彼は彼女を憎まなかった。拒絶しなかった。利用しなかった。ルネが何もできないと知っても失望せず、怒らず、ただルネが質問したことに答え、教えてくれた。傍にあることを、ただ許してくれた。それは彼女にとって、泣きたいような奇跡に思えた。
それだけで十分だと、そう思っていた。思っていたはずなのに、ああ、なんて欲深いんだろう。ルネは恐れた。ブラッドに裏切られることを恐れた。彼の本心が見えず、恐ろしくてたまらなかった。
手を伸ばせば、と思う。
もし手を伸ばし、ブラッドの背中に触れ、意識を集中して風を読んだのなら、多くのことが分かるだろう。彼が今なにを考えているか、ルネのことをどう思っているか、どんな過去を歩んできたか、なぜ悲しい目をしているのか。彼女が集中すれば、そんなことはすぐに分かってしまえるだろう。
ルネは立ち上がり、ブラッドの後を追った。小屋を出ると、彼は地面に座り、夜空を見上げていた。立派な満月だった。
冴え冴えとした月光はブラッドの白い肌を照らし、そこだけくっきりと世界から浮かび上がったような印象だった。寂漠。あえて言葉を当てはめるとしたらそんな言葉だろう。
ルネも月を見上げた。
世間の常識に照らし合わせると清々しいほど物事を知らないルネは、月というものがこんなにも冴え冴えとしていて、孤独で、けれども清らかなものだとは知らなかった。彼女を閉じ込めていた屋敷の一室―牢獄のようであったそこから眺めていた月は、もっとぼやけていた。決して届かぬ、よそよそしいものだった。けれどここに来てようやく、ルネはその危うさや孤高な様を愛せるようになった。
生家を逃げ出したとき、月は空になかった。真っ暗な中、部屋の窓から屋敷を出て、持ち合わせていた貴金属全てを投げ出して辻馬車を雇った。娘の機嫌を取ろうと、実父のちらつかせた宝石が仇になった。わざわざ警戒の緩む日を狙った甲斐もあった。その日は姉の結婚式があった。ルネとは違って平凡な、けれどもそれゆえに幸福な姉の結婚式で、彼女は努めて従順に機嫌よく振る舞った。使用人のみならず、近所にも酒が振る舞われた。裕福な家だった。全てと言わないまでも、ルネがもたらした富だった。
そんな幸せの余韻に浸る屋敷を尻目に逃げ出した彼女の行程は、当初思わぬ幸運に見舞われたものだった。深夜に辻馬車を捕まえられたのもそうだし、その馬車がよからぬ荷物を運ぶもので、御者が金に目がくらみやすい質だったのもそうだった。ただ幸運だったのはそれまでで、無体な真似をされそうになったルネは結果として、黒の森と呼ばれる場所近くに放りだされてしまった。
追っ手や野生動物、魔物、盗賊。恐れるものは沢山あった。それでも森に分け入ったのは、真実生きるためであった。
「どうした?」
気付けばずっと立ち尽くしたままだったらしい。ぼんやりと彼の背中を見つめていた。
ルネは急いで首を振り、ブラッドの隣に座った。どうやら彼が怒っているわけではないらしいと知って、ほっとした。いっそ滑稽なほど。
「身体が冷えるぞ」
まだ本調子ではないのだからと、ブラッドは指摘してきた。けれどルネはそんなことを忘れていた。そんなことなど意に介さない。ただそれほどブラッドの傍に、今いたいのだと自覚した。
「少しだけ。風が気持ちいいから」
下手な嘘を見抜いたのか、否か。ブラッドは小屋にとって返し、粗末な毛布をルネにかけてやった。そんな小さなことが、ルネにはたまらなく嬉しい。
もし、許されるなら。
ふとそんな考えがルネの脳裏を掠める。
もし、許されるならここにいたい。ブラッドと共に。
追っ手はあれで諦めてくれたかもしれない。ルネが前に纏っていた服を滝つぼで見つけて、もう死んだものだと見切りをつけて帰ってくれるかもしれない。両親はどうにか金の卵を産む鶏を失ったことを許容してくれるかもしれない。少しは泣いてくれるかもしれない。
もう、逃げなくてもいいかもしれない。
そうしたら、ここにずっといられるかもしれない。
淡い期待だ。けれどそんな期待を抱くことを、誰が責められるというのだろう。ルネはそれほど飢えていた。恐れながらも、欲しくてたまらなかった。
そんな思いが胸に去来したからか、ルネはどうにか伸ばしかけた手をひっこめることができた。もし一緒にいたいと思うなら、触れてしまうのはいけない。触れて知ってしまったら、うまくいかなくなる。ブラッドはルネの力のことを知らないが、態度には出てしまうだろうし、何よりルネの心が嘘をつけない。
知りたい。知ってほしい。
分かりたい。分かってほしい。
けれどそんなものが、ただ共にいられるという幸福に比べたら一体何だというのだろう。
ルネはブラッドに触れることはなかった。
言葉においても、ブラッドの過去についてなど問いかけることはなく、ただ共にいたいと祈るばかりだった。よく笑うようになった。相変わらず夜にうなされることはあったけれど、ブラッドの顔を見れば安心して眠りにつけた。
正直に言えば、彼女の中に抗いがたい誘惑は依然としてあった。けれどルネの根深い恐怖は、なかなかそれを許さなかった。何度迷い、恐れようとも、知らなくていいことまで知ってしまうことはこの上ない不幸だと知っていた。
それさえ一途に守り抜ければ、ずっとここにいられると思っていた。
「もうすぐ足が治るな」
ある日、そんな風にブラッドが切り出した。その頃にはルネは走るまではできなくても、歩くことに関しては何の問題もなかった。
「うん、ブラッド、ありがとう」
ルネはまっすぐ彼を見つめてそう言った。ここまで治りがよかったのはブラッドのおかげだと思っていた。心から、素直に感謝していた。だから気持ちをありのままに言葉に乗せて、想いを表情に隠そうともしなかった。
そんな彼女を見つめ、けれどもブラッドは顔をそらす。
「……足が治ったら、王都まで送ろう。そのまま馬車を使って、更に遠くに行くといい」
ウォルタランドから出ればもう追っ手はかからないだろう。そんな風に呟かれた言葉が遠い。
ルネは表情を取り落とした。
理解したくないという気持ちと、ついに言われてしまったんだという感慨が並行する。ルネの冷静な部分は、いっそ遅すぎたくらいだと呟いている。そうでない部分は、私が何かしたのだろうかと叫んでいる。
自分でも、泣き叫ぶかと思った。けれどそうはならなかった。ルネはどうにか震える唇に力をこめると、ぎこちなく笑みを作った。
「……ありがとう、ブラッド」
他にどう言えただろう。おとなしく引き下がる以外の選択肢を、ルネは知らなかった。知る機会はなかったし、知っていたとしても選び取れていたかどうかは疑問だった。彼女は、臆病だった。
「私、ちょっと水汲んでくるね」
そう告げて、小屋を出る。
そのまま森に分け入り、小川へと進んだ。いつもなら綺麗なはずの森のささやきは、全く聞こえてこなかった。世界の音という音は消えて、ルネをひとりきりにしたようだった。そうして、気付いたら小川へとたどりついたが、することもないのでその場にへたり込む。水の流れを見て、分かっていたでしょ、と呟いてみる。
ルネが自分自身、自覚するほど明るくなるにつれて、ブラッドは戸惑っていた。笑いかけ、ルネが心を示せば示すほど、彼は怯えていた。
そんなことが分からぬほど、ルネは愚かではなかった。そんなことが分からぬほど、『風』は甘いものではなかった。そんなことをありのままに許容するほど、彼女は優しくはなかった。
見て見ぬ振りをしていただけに過ぎない。自分もブラッドも。けれどそれに限界がきた。それだけだ。
このまま。
このまま、ブラッドには告げずに森の外へ出ようか。
それはとんだ無謀な考えだったが、とても魅惑的に思えた。直面するだろう危険のことは、頭から消した。見て見ぬ振りは得意だから。彼もそれを望んでいるんじゃないだろうか。頭を悩ます原因がひとりでに消えてくれれば。ああそうだ、誰かのせいにするのも得意だった。
この力を持って生まれたのは誰のせいでもない。精霊のいたずらですらないのだ。けれどだからといって、何かが少しでも楽になるということはない。だから、全部を全部のせいにしてきたのだ。そうして生きてきたのだ。
そしてきっと、ブラッドも迷っていたのだろう。
ルネが小川の傍で、日が傾くまで過ごしていても、彼はやってこなかった。
すっかり冷え切った身体を引きずって、彼女は森へと戻った。けれどどうしても小屋には足が向かなくて、小屋の周りをぐるぐると歩き回ることになった。この期に及んでも見つけてもらいたがっている、自分の甘えた根性はいっそ立派なくらいだろう。ルネはそうひとりごちた。ブラッドは探してくれるだろうか。もし見つからなかったら、あるいは悲惨な形で彼の前に現れたのなら、彼の哀しみのひとつになって、彼の肌の上に降り積もるだろうか。
邪魔だと割り切って放り出すことも、抱え込むこともできない。そんな優しくて、淋しい人なのだろう。
何回小屋の周りを周っただろうか。
木々の間からちらりちらりと見えるだけの小屋を、ルネは幾度なく見つめた。もうすっかり日は暮れていた。そろそろ小屋の陰影すら見えなくなってしまうだろう。完治していない足が鈍い痛みを訴えてくる。背を向けてしまうのがいいと思うのに、足は震える。
だから気付かなかった。
自分のことばかりに気をとられていて、背後から近付く気配に全く気付けなかった。叫ぶ間もなく、あっという間に両手と口をふさがれて、あっさりと捕まってしまう。ルネを押さえつけた男達は目配せしあうと、あっという間にブラッドの小屋から離れた。こんな凶悪な風に気付けなかったなんて、何が稀代の風読みだろう。
少女の細腕では振りほどくことなど敵わない。
お笑い種だ。中途半端な自分が望まない、最悪の結果が向こうからやってきてくれたというわけだ。もし月に自分の顔が映ったなら、きっと泣き腫らした赤い目をしているのだろう。ルネはそう思った。ブラッドとは違って、醜い赤い瞳なのだろうと。
「まさか小屋の外にいるなんてな」
「あの男がいなかったのは不幸中の幸いだったな。これで突き上げをくらわなくても済む。報酬もたんまり弾んでもらえるぜ」
「あいつには散々邪魔されたからなァ」
小屋から充分離れたからなのか、男達はそんな言葉を交し合う。反してルネは驚きに目を見開く。邪魔とは一体どういうことだろう。
涙の止まったルネを見て、男達は会話の矛先を彼女に向けてきた。
「ったくよ、元はといえばあんたが逃げ出したりしなきゃよかったんだ。あんな厄介な用心棒のところになんか転がりこみやがって」そう言って男はルネを睨みつけた。「あいつにゃ仲間が何人もやられてんだ……腹いせにやっちまおうか」
「やめとけ、報酬がでねぇぞ」
ルネは男達には頓着しなかった。今しがた得た情報を整理するので忙しかった。
幾度となく邪魔された、と男達は言った。彼らはルネがブラッドと共にいることを知っていた。諦めたわけではなかったのか。ブラッドが幾度となく追っ手を遠ざけていてくれたのか。ルネには知らせることもないまま。
それは。それは、なんて。
「薄気味わりぃ化け物め」
時が、止まる。
化け物と、そうブラッドのことを言ったのだろうか。いつかルネのことをそう呼んでいた人がいたように、彼のこともそんな風に。
―許せない。
「ってうわ、なんだこいつ!?」
ルネは力の限り暴れだした。
ブラッドを、あんなに優しい人を化け物だと罵った男が許せなかった。彼は何も悪くないのに。静かな生活に転がり込んできた小娘を放り出さず、あまつさえ守ってくれた人なのに。
あんなに哀しみを背負った人なのに。
「おい、押さえつけろ!!」
直に頭を押さえ込んできた手から、不快な風が流れ込んでくる。ただただ乱暴だ。ルネの力のことを忘れてしまっているのだろうか。さっきから男の興奮した心理状態に連動した記憶ばかりが流れ込んできて、吐きそうになる。殴り、蹴り、殺す。そういったことを生業としてきた男達だ。その光景が流れ込んでくる。
その中の一つに、一人だけ毛色の違うものがあった。そこにあるのは恐れだ。断片的なそれは、色素の薄い肌と瞳を持った男が剣を振るう光景だ。襲いくる多勢をものともせず、たった一人で全員を薙ぎ伏せていく。あまりに強い。恐ろしい。それを見ているルネにまで、身体の震えが伝染する。
けれどルネは暴れるのをやめなかった。
そうこうしているうちに痺れをきらした男達の一人が、ルネの横っ面を思い切り殴った。彼女の小さな身体は飛び、噛まされていた布地はどこかへ飛んでいった。
「馬鹿野郎、傷はつけるんじゃねぇよ!」
視界がぐらぐら揺れている。けれどルネは、どうにか声を絞り出した。否、言葉は勝手に滑り出した。
「……ろ、し」
「あぁ?」
胸倉を掴んでルネを起こそうとしていた男は、素っ頓狂な声をあげる。次の瞬間、髪の間から覗いたルネの瞳に息を呑む。
「仲間殺し。それがあなたの罪ね」
言葉を失う男を尻目に、ルネは続ける。ああ、違うと。
「それは過去の出来事じゃない。これからあなたがやろうとしてること。私を連れ帰ったその報酬を、仲間全員を毒殺して独り占めしようとしてる」
「なっ、なにを言ってやがる!」
「懐には仕入れてきた毒薬がある。あなたは今までそうやって仲間を殺して、流れて生きてきた」
「このガキ!」
激昂した男はルネをもう一度殴りつけようとしたが、けれども頭領と思しき男に蹴り倒される。そこを他の男達がわっと取り押さえ、懐から毒薬を見つけ出した。
ルネには見えていた。今の光景も、それから先の光景も。
命乞い。揺るぎようのない証拠。押さえつけられた男。夜の闇を一閃する銀の光。断末魔。飛び散る緋色。
そして、畏怖の光。
「風読み、だったな」
頭領が改めて思い出した、といったように呟いた。声の震えが隠しきれていない。それを恥じるかのように先ほどよりも幾分大きな声で「読むなら読みやがれ。大したこたぁねぇ」と嘯きながら、ルネに近付いた。
ルネは意識を集中した。
遠くから、子どもの泣き声がする。
「殴られたのね」
「くだらねぇ」
「沢山、殴られたのね。父親にも母親にも。罵声を浴びせられて、食事なんてもらえなくて、肥溜めの中に突き落とされたこともあった。でも弟達はきちんと愛されてた。名前を呼ばれて、抱きしめられて。あなただけ、あなただけが邪魔者だった」
「お嬢ちゃん、だまらねぇと……」
「だから刺した」
脳裏に鮮やかな緋色が踊る。血と炎の色。
「両親を刺して、弟達を刺して。まだ息のあるうちに家に火を放った」
「ああ、それがどうしたってんだ。多かれ少なかれ、こんな仕事してる奴らにとっちゃ珍しいことでもねぇ」
「あなたにとってはそうじゃない。だから、自分の子どもを殺したんでしょう?」
泣き喚く子ども。その泣き声が腹立たしくてわずらわしくて、恐ろしくて。自分を見ているようで、憎くて。気付いたら両手を細い首にかけている。少し力をこめたらあっさりと音を立てて折れてしまった。まだ赤ん坊だ。他愛ない子どもだ。憎い。恐ろしい。そして気付いたら、自分は笑っている。
「黙りやがれ!」
頭領は足を振り上げた。蹴るつもりなのだろう。
……それが一体、なんだというのだろう。
「―ルネ!」
けれど、衝撃はやってこなかった。
やってきたのは驚きだった。
現れたブラッドは、大きな剣を振り回して、息もつかせず男達を切り捨てていく。ルネを背後に庇ったまま、決して退かなかった。彼の後姿を、ルネはただ見つめている。
ただ、見つめている。
|