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二つの人影が、平原を行く。
風が強く吹き、ブラッドはルネのフードを被せ直した。彼女は慌てて、また風に飛ばされないように手で押さえつける。ブラッドは馴れたもので、暴れる風をものともしない。
二人はゼレスを出て、更に大陸を南へ向かっているところだった。
目指すのはハイメープル農園。かの城塞都市にて世話になった女将が、紹介してくれた場所だった。遠縁の農家があり、働き手を捜していると。とてものどかな村ということだった。
悪名高いスクーレにも道中立ち寄ったが、ルネはもうここには近付かないでおこうと誓った。あそこには悪い風がたまりすぎている。それとは別に、大きな風が時計塔を取り巻いてもいた。あれに触れるのは危険だと、本能が告げていた。
やがて農地が見えてきた。平原とはまた違った、土の香りがする。遠くに家が見える。畑が一面に広がって、そこで作業している人は残念ながら確認できない。背の高い麦穂に隠されてしまっているのだろう。女将の遠縁の家は赤い屋根という話だった。村人を見つけて問えばすぐ見つかるだろう。
ルネは立ち止まった。まだ一番近い民家すら遠くに見える位置だが、旅はここで終わりだった。
「もうここでいいよ、ブラッド」
ルネの旅は、終わりだった。
「……そうか」
「ありがとう、送ってくれて」
―私たちは、離れた方がいいよ。
あの日、泣きはらした目でルネはそう言った。突然の提案に、ブラッドは戸惑っているようだった。それともそれは彼女の願望だっただろうか。
ブラッドは理由を問わなかった。ルネも言わなかった。
正しくは、『離れた方がいい』ではなく、『一緒にいるのが辛い』ということは、ルネは言わないでおいた。それは彼女の個人的な想いだったし、意地だったし、身勝手さでもあった。ルネは自身の卑怯さを充分に承知していた。結局私は、捨てられるのが怖いだけなんだと。なりゆきで手にいれたと錯覚したものは、いつか消える。だから、決して去らないものが欲しいんだと、どうして言えただろう。あなたに置いていかれるのが怖いだなんて。置いていくのは私の方なのに。
ブラッドの背負う哀しみを共有するだけでは、何も変わらない。それを痛感した。
だからあの日、ある願いを託した。
ねぇ、私の名前を貰って。
名前を?
私の本当の名前。ルネは本当の名前じゃないの。ブラッドには、私の本当の名前を貰ってほしいの。
よくわからないけど、それでいいのか。
うん、それだけでいいの。そうすることで、私は本当に『ルネ』になれる。能力に苦しめられていただけの私を、眠らせてあげるの。
わかった。
こんな能力に振り回された女の子としてじゃなく、ちゃんと自立したひとりの『ルネ』として生きるの。
……そうか。
それに、やりたいことがあるの。
それは?
まだ内緒。いずれ分かるよ。
わかった。
……私の本当の名前は―
「ブラッド、本当にありがとうね」
「迷わないか」
「大丈夫! 民家は見えるし、ちゃんとできるよ」
ルネは笑う。頬を無理やり吊り上げる。ブラッドは何も言わなかった。言葉が出てこないのかもしれない。こんな風に、誰かを見送ったことがないのかもしれない。ルネでさえ、こんな風に見送られたことがない。いつも逃げてばかりだった。
「ブラッド」
彼女は両手を伸ばした。いつかしたように。彼女の指先はブラッドの頬に触れる。血の気の感じられない白い肌に、確かに宿る熱。そしてルネは、添わせた指を思い切り持ち上げる。不恰好に、ブラッドの顔が歪む。
「ぶっ!」
「……笑い方、覚えてるはずだよ。今はただ思い出せないだけ。だから、ちゃんと笑って」
「ルネ」
「また笑えるよ、絶対。私が言うんだから、絶対」
光る滴が頬を駆ける。
その痕跡を、ルネは消そうとはしない。ただ頑なに、持ち上げてみせる。ブラッドの顔から離した両手を使って、今度は自分の頬を持ち上げてみせる。
「じゃあね、ブラッド」
「……ああ」
頷き、しばし沈黙した後、ブラッドは踵を返す。
けれど踏み出す足はなく、ルネも身じろぎしない。風の音だけが響く。やがてブラッドは振り返った。ゆっくり、ぎこちなく。ぽかんと見上げるルネに向かって、片頬を上げようと試みる。
ルネが手を伸ばす。そっと手を添えられる。
「……私のこと、忘れないでね」
どうしてもこらえきれず零れた言葉。切実な祈り。
ブラッドは、そっと笑った。
私、やりたいことがあるの。
きちんと自分の能力を制御できるようになって、心も身体ももっと成長したら。
捨てられることに怯えなくなったら。
あなたに哀れまれることも、ただ手を引かれることも、一方的に守られることも。あなたに与えられてばかりの私を、変えることができたら。
今度はあなたについてはいかない。
生まれなおした私で、あなたと一緒に歩くの。
あなたと再び、巡り会うの。
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