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ルネは明け方と共に、黒の森の外へと出た。
傍らにはブラッドもいた。彼は追っ手を殺したわけじゃなかったらしく、共にこの森から出ることになった。かなり長い間住んでいたはずなのに、名残惜しい素振りは全く見せなかった。
王都への道のりは、ルネの足が本調子ではなかったので一月ほどかかった。心が足どりを重くさせたとて、ブラッドもルネもそれを責めようとはしなかった。
いずれ必ず、別れはやってくるのだから。
ただルネにとって嬉しい誤算だったのが、王都までの同行だと思っていたブラッドが、途中まで一緒に行くと言ってくれたことだった。途中まで、という制約がルネに束の間の喜びを、そして拭いがたい恐怖をもたらす。それは、まだ明らかに成人前だと分かるルネではろくなことにならないと、ひとえにブラッドの優しさによる。多少の責任を感じる部分もあったのかもしれない。そんなもの、誰も、ましてや彼が感じる必要などないのに。
行き先は、南アクラルに決まった。
ルネが南向きの風がいいと呟いたからだ。彼女にはきらきらと光る何かが南へと飛んでいくのが見えていた。ブラッドはそれを当たり前のように受け入れてくれた。
ブラッドは、本当に不思議な人だった。外へ出たことでその思いを強くする。
心が読まれると分かっているのに、変わらず彼女を傍に置いている。あからさまに接触を避けるようなこともない。かといってルネに風読みを頼むでもない。もしブラッドが望むなら、ルネはいくらでも応えただろうに。
最初は分からなかったそれが、旅を続けていくうちに徐々に見えてくる。
平野を往き、湿原を超え、雲を追い越し、風を味方につけて。進めば進むほど、ルネは心が弾んだ。不安はあったけれど、初めて見るものたちは単純に美しかった。自分のちっぽけな力で悩むことなど馬鹿らしいと、一瞬でも思わせてくれた。
けれどブラッドは違った。
何を見ても、何を聞いても、反応はあまり変わらない。それは彼が止まっているからだ。心を殺そうとしているから。
だから、ルネに何を見られても放置している。
だから、積極的に何かを得ようと動くことはない。
捨てようとしてる。自分と、自分から隔絶された世界そのものを。表面上だけでも手放すことで、折り合いをつけようとしている。それはきっと、ある意味では成功していたんだろう。
でも、何の縁もない少女を助けてしまえるような魂が、それに耐えられるはずがない。悲しみを哀しみとして、そのまま雪のように降り積もらせたままでいるなんて、永遠には続かない。
見て見ぬ振りは、ずっとは続かない。
二人の旅程は、グランタロス湖をぐるっと迂回してゼレスに至るものだった。移動には、ブラッドが護衛団の一員に加わることで無料になった辻馬車を利用した。
けれど慣れない旅に、何かと体調を崩しがちだったルネは、ゼレスに着くなり熱を出してしまった。
宿に寝付いたルネのために、ブラッドは連日酒場に顔を出して、日雇いの仕事で路銀を稼いだ。魔物、盗賊といった相手を問わず戦いなれている彼は随分重宝された。周りは似ていない兄妹か何かのように思っていたようだが、もちろん彼がそんなことをする義理はなかった。いっそ置いていってもらえたら楽なのにと、ルネが思わず考えてしまうほどで。
無表情で、無愛想で、不器用で、けれども妹思いの男。
それが周りのブラッドに対する印象だった。
対するルネは少しでもブラッドの負担を減らそうと、目一杯愛想よく振舞った。皮肉なことに、彼女の能力はそれに大きく貢献した。調子のいい日には、慣れない手つきで繕い物などにも精を出した。あまりに顔が売れすぎたのか、宿の受付を頼まれることもあった。
愛想がよくて、兄思いで、不器用で、けれども少しだけ臆病な少女。
それが周りのルネに対する印象だった。
本来ならルネの調子が上向くまでだったはずの滞在は、体調が復活しても尚、ずるずると延びていく。そのことに焦りを覚えたのは、他でもないルネだった。
ブラッドと一緒にいたくないわけじゃない。むしろこの状態は喜びですらある。日々彼から流れこんでくる風は、どことなく、少しずつ変化しているようにも思える。ルネの力が大きな弊害となることもない。少し疲れるけれど、段々と風を遮断する時間を長く保つこともできるようになってきた。全てが順風満帆だ。いっそ出来すぎなほど。だからこそ不安になる。
「あのこれ、直しておいたんだけど……」
「ああ、ありがとう」
ルネが繕っておいたマントを手渡すと、ブラッドはあっさりと受け取った。感謝の言葉は、以前のそれよりもなめらかに響く。
そのまま二、三言葉を交わしたあと、ブラッドはいつも通り酒場へと出かけていった。今日はゼレスの北部を巡回するらしい。彼は当たり前のように出て行く。そのままルネを置いていくなんてことはないと、彼女が確信を持てるほど自然に。
「あんたたちは本当、仲がいいねぇ」
世話になっている宿屋の女将がにこやかに言う。彼女がルネたちを最初に兄妹だと思い込み、更には色々と世話を焼いてくれた人物だ。女将と話していると自然に笑顔になる自分を、ルネは知っていた。
「そうですか?」
「ああそうさ! 顔は似てないし、最初は駆け落ちかなんかだと思ったけどさ、あんたら二人が並んでると……うぅん、なんていうんだい、空気? 雰囲気ってのかい、それがそっくり同じなんだよ」
「雰囲気、ですか。そんなに似てます?」
「そうそう。自分で気付いてないかい? あんた普段はよく笑うし、結構顔に出るけどさ、あの兄ちゃんと一緒にいるときはそっくりの表情してるよ」
世間話の域を出ない意見だった。
女将としては、どれほど二人が似ていて仲がいいかを強調したかっただけなのだろう。それを我がことのように喜んでみせただけなのだろう。
けれどルネは愕然とする。
自らの顔を擦ってみて、さっきまでどんな顔をしていたか思い出そうとする。いつもどんな顔で、ブラッドと話しているんだろう。
「女将さん」
「ん? なんだい」
「私、さっきまでどんな顔してました?」
「さっき? あらやだ、あたし変なこと言ったかい? あんたは相変わらず美人だよ! 黙ってても笑っててもね!」
あははと豪快に笑い飛ばす女将につられて、ルネも笑顔を作る。それは反射的なものだ。女将から流れ込んでくる風に対して取った、一種の防衛反応だ。
唐突にそれを理解する。
笑いたくもないのに笑ってしまう。
泣きたくないのに涙ぐんでしまう。
思い返せば、それはここゼレスに来てから頻発するようになった。多くの人と接することで感情表現が豊かになったのかと思っていたが、きっとそれもあるのだろうが、きっと違う。相手から流れ込んでくる風に当てられたのだ。同じ感情を共有することで、あるいはできたと錯覚することで、距離は縮まりやすい。だからこそルネは大きなトラブルもなく、短期間でここに馴染むことができた。
ルネが笑うのではない。
女将が、周りの人が笑うから彼女は笑うのだ。
ならばブラッドは?
ブラッドといるときの自分はどうなのだろうと考えて、答えはすぐに出る。同じ空気、雰囲気。きっと外から見たら同じ表情をしているのだろう。それが風の影響を受けていないと、どうして言えるだろう。
愕然と、する。
あの小さな小屋に二人暮らしていたときのほうが、まだブラッドとルネは分化されていた。きっと、深く触れてしまったからだ。そして外に出て、二人の世界と外の世界とに分かれたように錯覚し、尚それにしがみつこうとしたから。決して切り離せるものではなく、ただの繋がりでしかなく、決して一つにはなれないものを。
「ルネ? あんた、どうしたんだい。顔が真っ青だよ」
ルネは顔を覆って隠し、小さく首を振る。今自分はどんな顔をしているんだろう。それが分からない。
能力に踊らされているようで、怖かった。
結局、あのあとはどうにか取り繕って女将の前を後にし、ルネは部屋に閉じこもった。毛布を頭から被って、寝台に丸まる。
女将が気遣ってあれやこれやと差し入れてくれたが、扉越しに接することしかできなかった。ちょっと具合が悪いのだと、そう言い通して。そのままずっと、ブラッドの帰りを待つ。
やがて板張りの廊下を、聞きなれた足音がこちらに向かってくる。熱を出して寝込んでいたときに、何度となく聞いた足音だ。楽しみにさえしていたそれだった。けれど今は無性に怖い。いつもより早い足音が、怖い。けれど、恋しい。
ブラッドはノックがないまま扉を開け放つと、ルネのすぐ近くに立った。「大丈夫か?」その声に宿る風が、今は読めない。
「ルネ、また熱が出たのか?」
優しいはずのその声が、まるで責めるように降ってくる。いつもなら風を読めば事足りるそれが、ちっとも意味を成さない。ルネはますます丸くなり、毛布の奥へと閉じこもる。それを引き剥がしてくれたらいいと、どこかで思いながら。
ぎしりと、寝台がきしむ。
どうやらブラッドがルネが丸くなる傍に腰掛けたらしい。そのまま装備を解いていく音がする。元々そんなに着込んでいる方でもないし、ゼレス特有の砂避けマントは玄関で脱ぐ決まりになっている。せいぜいが武器と、胸当てを外すくらいの作業を終えても尚、ブラッドはそこにいた。
「振り向かないから」
ただそれだけを彼は呟いて、立ち上がる気配はない。そのまま武器の手入れを始めたようだ。嗅ぎ覚えのある油の臭いがルネの鼻をくすぐる。二人は無言で、剣を砥いでいく音だけが部屋に満ちる。
ルネは恐る恐る、毛布に隙間をあける。ブラッドの背中が見える。背中に彫られたあの紋様は、隠れてしまっている。
視線のないことに安心して、ルネは呟く。
「……私ね、今までこの力が嫌いだった」
「そうか」
ブラッドは振り返らなかった。驚かなかった。
「でも今日はじめて、こんなに怖いと思った」
今まではただ忌々しいだけだった。嫌いだと言いつつも、役に立てる部分も少しはあって、それがまた嫌いで。けれどもこれほどまで怖いのは、きっと初めてだった。
「ブラッド……」
あなたに向き合うときの私は、一体何者なんだろう。
そう言いたい。あなたと同じものになってしまっているような気がする。表面上の模倣に過ぎないのに。ただの錯覚なのに。同じものはとても楽だけれど、違う部分に目を瞑れているうちはきっと幸せだろうけど。でもそれで、何が変わるんだろう。
それでいいとも思う。お互いに楽に過ごせるならと。でも。あなたの哀しみに慣れることはできても、いずれその一つになれるかもしれなくても。きっと、少しも癒せない。
ルネは手を伸ばす。ブラッドの服の裾を、少しだけ掴む。
風は読めても、読むのがこんな小娘じゃ何の意味もない。感じ取る心が育っていないのなら、彼の孤独をどう癒していいかも分からない。ルネはそう思う。絶望的なまでに、そう痛感している。心が刺されるような痛みを同じように体感していても、老いずに生きていくブラッドの心が理解できるわけじゃない。不老不死という現象さえ、ルネには遠いのだ。ただブラッドがそうであると、疑う必要がないだけで。
「なにかできることがあるなら、言ってみてくれ」
ブラッドは優しかった。
けれどそう言われてみても、ルネにはとっさに出てこない。彼女は甘えたことが極端に少ない。
「……熱出したわけじゃないって、どうして分かったの」
「なんとなくだ」
「巡回はどうだったの」
「何も問題はなかった。魔物も、盗賊も、何も」
「ブラッド」
「ん?」
「触ってもいい?」
ああ、なんて馬鹿なことを言ったんだろう。口から言葉が滑り出して、ルネは後悔に襲われた。けれど一度出してしまった想いは取り返しがつかない。そして、後から訂正しようとも思わなかった。
それはまぎれもない本心だった。
「……ああ」
ルネはしばし逡巡したあと、ゆっくり身を起こした。まだ中途半端に毛布は被ったままだ。ブラッドは手入れの手を止めて、肩越しに少しだけ彼女を窺う。
ブラッドの左腕に手を伸ばし、やはり躊躇い、けれど承諾するように頷かれて、ルネはそっと白い肌に触れた。少し乾燥している。荒れているとまではいかないが、自分の肌触りとは全く違うように感じる。体温はブラッドの方が高い。ふと、何かの影がよぎる。けれどそこまで鮮明じゃない。新しく彫ったらしい刺青ではまだ明瞭だが、見るからに古そうな刺青は、ひっそりとルネの心を撫でていくだけだ。
「いっぱい見送ったのね」
「そうだな」
「全部覚えてる?」
「覚えてるよ」
「……背中の刺青、見てもいい?」
ブラッドはしばし無言になったあと、服を脱ぎだした。筋肉質な背中が見えて、ルネはちらりと視線をそらす。大それたことを頼んだものだと自分でも思った。顔が赤くなってはいないだろうか。
「あ」
「どうした?」
「あ、ううん、なんでもない」
ルネの口元が少し綻ぶ。気付いたのだ。こうしてブラッドを前にして恥ずかしいと思うのは、まぎれもなく自分の感情だと。
慌てて笑みを引っ込めると、ルネは改めてブラッドの背中に向き合った。眼前に、恐ろしげな顔がある。他人も、ましてや自分さえなかなか触れぬ場所。ブラッドが誰にも預けぬ場所。そこにそれはある。
ルネはそっと手を伸ばす。指先が、橡色に塗りつぶされた皮膚に触れる。そこから震えが伝わって、ルネの全身に一瞬にして広がる。すぐ収まったそれは、金色の景色をつれてくる。
視界一杯に広がったのは、鮮やかな金糸の髪。
そして気付いたら、ルネは泣いていた。
まるでさざなみのようにそれは広がって、たちまち彼女の胸を埋め尽くした。抑え切れなかった嗚咽が、口の端から漏れる。
「大丈夫か?」
ルネは首を振る。別に心配されるようなことが起こって泣いているわけじゃないと。
私は、嬉しいんだと。
こんな優しい想いには初めて触れた。切なくて、優しくて、熱い。こんなに切実に、何かを祈る気持ちがあるなんて。ルネはブラッドに言いたかった。この刺青を彫った人は、心底あなたの無事を祈っていたんだと。この紋様には、ありったけの想いがつまってる。何年、何十年経っても消えないくらい強く。
今、すべてが、たまらなく嬉しい。愛おしい。
そして、悔しい。
ルネは泣く。止めようとは少しも思わなかった。すべてすべて、涙にして表したかった。きっとどんなに出し尽くしたように思えても、あとには必ず何かが残ってる。一見そうとは分からなくても。ルネにはそれが分かっていた。分かったのだ。
ブラッドがためらいがちにルネの背中を撫でる。優しく、落ち着かせるように。けれども、怯えてもいると分かる。手が震えている。
ルネはたまらずブラッドに抱きついた。それははじめてのことだ。親にさえ、抱きついたことはない。小さい頃はあったのかもしれないけれど、物心つくころには既に避けられていた。加減が分からなかった。強くぶつかりすぎて、肩のところが痛い。けれどブラッドは受け止めてくれたし、変わらず背中を撫でてくれた。
ずっと、ルネが泣き止むまで。
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