Dum Spiro, spero
01

 その男は、時々やるせない様子で酒を飲む。
 ウォルラス・ファリオンは、己の目の前にしてどこか遠くを見つめているようなブラッド・ボアルをいささかうんざりした気分で見やった。彼はちびちびと麦酒を舐めている。既にいくつか空の杯が転がっているが、これしきで酔うような男ではないはずだった。伊達に長い年月、飲み慣れているわけではないはずなのだ。
 ならばどうしてブラッドがそんな暗いような目をしているのかと聞かれても、ウォルラスには分からない。そのことが腹立たしいのだと、けれど今の若い僧侶には気づく余地もなかった。
「なんであんた、そんな不味そうに酒を飲んでるんだ」
 たまらずそう声をかけると、ブラッドは意外だというように目を見開いて、そうだったか、などと返した。これは自覚がないらしいと、ウォルラスは舌打ちをすんでのところで抑える。
「そう見えるんだよ。不味いなら飲むのやめちまえ」
「いや、不味くはない」
「だったら何だってそんな顔してやがんだ」
「変な顔でもしてたか?」
 とことん自覚のない男は、やおら顔を擦った。
 こういうとき、一体何を思い出してるんだと、ウォルラスは問いかけたい衝動に駆られる。今までこんな風に酒を飲む男に出会ったことがなかったのだ。陽気に笑うか、些細なことで怒るか、あるいはいっそ滑稽なほど悲しんでみせるか。そのどれにも属さないようなブラッドの態度は、どうにも気持ち悪い。
 やめだやめだ。
 答えが出ないことを自分の頭の中でこねくり回したって仕方がない。いっそ訊いてしまえと、ウォルラスは口を開く。
「一体何を気にかけてるんだ」
「え、何が」
「そう見えんだよ。上の空で酒飲んでよ、こっちの酒まで不味くなる」
「それは悪いな」
「あー、だからそうじゃなくてよ、いっそのこといっちまえ。その方が楽になるかもしれねぇだろ」
 うーん、とブラッドは唸る。もしかして何も考えないであんな顔をしていたのか。やっぱりこの男は長い年月を生きてきたらしいだけあって、どこか奇妙だ。いや、これがこの男の特性だというなら納得できる。
「今日、仕事で」
「あん?」
「女がいただろう」
 今日は二人で組んで、近隣の森に潜んでいるらしい魔物を退治しに行った。そのとき募ったその日限りの雇われ仲間の中に、巫女が一人いた。あれのことだろう。
「ああ、あのいい女な。なんだ、気に入ったのか」
「いや、別に」
 なんだそんなことかと合点しかけたウォルラスは、簡単に否定されて思わず眉根を寄せる。一体なんだってんだ。
「その女がどうしたって」
「昔の知り合いに似てたってだけど」
「……ああそう」
 これだから嫌になる。このブラッド・ボアルという男は戦わせれば誰も右には出ないほどだというのに、他のことに関してはどこかずれた反応を返す。初めて出会ってからちょくちょく仕事で顔を合わせるようになって、まだ半年も経っていない。正直、そこまで多くを知らない。知っているのはブラッドが強いこと。稼いだ路銀のほとんどを貧しい者に分け与えていること。感情が乏しいこと。不死身であること。たったそれだけだ。あとそうだ、どこかこの男はどこかぼけている。
「知り合いに似てたってだけで、そんな風に上の空になんのかよ。ってあれか、もしかして惚れてた女とかか」
 呆れて言葉を重ねるうちに、ウォルラスはなるほどそうだと思えてきた。
 不老不死だというこの男。その確かな証を己が目で見ても尚、ウォルラスはまだ自分の常識というものにブラッドを当てはめたがっていた。無意識のうちに。
 それはあまりにブラッドが普通だからだ。
 もちろん戦わせれば強いし、多くを知っている。自分には想像もつかないほど戦ってきたのだろうし、若い外見に似合わぬ老成した雰囲気をまとうこともある。けれどやはり、ただ目にしただけではブラッドは普通の人間だった。正確な年数は定かではないが三百という時を生きたということも、深い傷を負っても死なぬということも、今目の前で麦酒を口に運ぶ姿からは到底想像できない。おどろおどろしい雰囲気も、不可思議な力もない。そして何より、彼はただの子供が不遇に命を落としたというだけで、心から哀しむことのできる男なのだ。
 不老不死というにはあまりにも、普通の男だった。
「あんたってモテるもんな。昔の女に似てて会いたくなったとかか?」
 だからこそ、ウォルラスはにやにやと笑いかけた。酒のつまみにでもするつもりだった。
「会うのは無理だな。もうずっと前に死んだから。百年以上前の話だ」
「……わりぃ」
「別に謝ることじゃないだろう。ありふれた話だ。そっくりな人間が世の中に三人はいるっていうし」
「そうやって昔のことはよく思い出すのか」
「いや、別にそういうわけじゃない。今日だって、随分久しぶりに思い出した」
 この年になるとどうもな、と笑えそうもないことを小さく笑って言う。
 ウォルラスはもろもろを酒と一緒に喉の奥に押し込んだ。随分と苦い。それはきっと腹の底で、面白くない思いが暴れているからだ。
「会いたいって思ったりするのか」
 ああ、何言ってるんだ。こんなこと言うつもりじゃなかったと、空の杯をテーブルに叩きつける。
「……どうかな」
 ブラッドは歯切れが悪い。またぼんやりと二人の間にある中空を見ている。
 やがてぽつりと言った。
「会いにいきたい、と思ったことはあるな」
 なるほど、その言葉を聞いてウォルラスはまたもや酒を喉の奥に流し込んだ。それでも尚なにかが足らず、酒場の奥に一番強い酒を持ってくるように叫ぶ。
「おいおやっさん、一番強いやつを二つくれ!」
 北アクラルで飲まれるという火酒を二人分。それを運んできた酒場の看板娘は、気遣うような、それでいてどこか面白がっているような視線を寄越した。手のひらにすっぽりと収まってしまうような小さな容器になみなみと透明な液体が注がれている。その酒は飲みやすくて良質だという話だった。刺激臭はしない。ともすれば水のようだ。
 ウォルラスは円卓に置かれたそれをひっつかみ、飲み干した。途端に喉が焼けた。これはまずいと思ったとき、ブラッドが眼前に何かを差し出してきた。ろくに確かめもせずそれを口に含む。先ほどとは違った酸味が、口の中に広がる。レモンだ。けれど先の刺激に比べれば甘い蜜みたいなものだった。とどめとばかりにもう一つ口に含み、とんでもない火酒を胃袋に叩き込んだ。
「大丈夫か?」
 自分の方がよほど血の気の失せた顔色をしているくせに、ブラッドが問う。心なしか口元が緩んでいる。
「……あんたも飲め」
 飲み比べだ。そう言うと、ブラッドは困ってるんだか笑ってるんだかよく分からない顔をして火酒を手に持った。そしてそのまま一気に飲み干して、ふうと一息つく。
 余裕そうだ。少なくとも、自分よりは遙かに。
 飲んだことはあるのかと問いかけようとして、ウォルラスは思いとどまる。どんな答えを返されようと、意味はない。問いかけること自体が、苛立ちの元だからだ。だから酔ってしまえばいい。こんな日は飲んで飲んで、ひたすら飲んで、何も分からなくなるまで酔ってしまえばいいのだ。
 また酒場の主に言って、今度は火酒の瓶ごと寄越してもらった。中身を酒杯にあけながら、ウォルラスは不敵に笑う。
「ぜったい潰してやる」
 ブラッドも応えて言う。
「望むところだ」



 血が全部酒に変わったんじゃないかと思えるほど飲んだと思った頃には、空は明るくなりはじめていた。
 正直記憶はない。
 閉店だからと酒場の主に叩き起こされ、ブラッドと二人して外に追い出された。外の空気の予想外の冷たさに一瞬しゃっきりとした気分になったが、何分酒量がすさまじかった。ウォルラスは道ばたに座り込みそうになる。
「おい、しっかりしろ」
 酔っ払った僧侶を横で支えるブラッドの顔色は変化していなかった。むしろ青白さを増している気がする。
「なんであんたは平気なんだ……」
 恨めしさが声にこもる。
「平気じゃない」
 少しだけうんざりしたような顔でブラッドが言った。確かに、ウォルラスを支えているせいもあるだろうが、ふらふらとまっすぐ歩くには至っていない。
「あんた顔真っ白だ」
「顔にでないんだ。むしろ飲むと血の気が引く」
「だりぃ……」
「しっかりしろ、道端で寝る気か?」
「不老不死ってのは酒にも強いのか、なんでもありだな」
「それだけ口が回ってるなら置いてくぞ」
 ウォルラスはすぐ横にあるブラッドの顔を見上げた。眉間にしわが寄っている。なるほど、これが『迷惑した』顔か。
「……あんたのそういう顔、初めて見るな」
「は?」
 表情が動いた。正しくは戻った。無表情に近い状態で眉が少しだけ上がり、口も少しだけ丸くなる。これが『驚いた』顔だ。これは何度か見たことがある。
「あんたは大抵、迷惑してても受け流すだろ」
 そういうときは薄笑いを浮かべていることが多い。といっても笑っているかいないか微妙な表情だ。
「そんなことはないさ」
「そうか? まぁあと、迷惑な酔っぱらいを投げ出さないくらいにはお人良しだ」
 無表情になった。これはいつも見てる顔だ。鋭いわけじゃないが、どこかよそよそしい。戦闘になると、無表情ながらも研ぎすまされた剣のような顔つきになる。
「放り出されたいのか?」
「さぁね」
 適当に返事をしても、ブラッドはウォルラスを放り出したりはしなかった。歩くうちに表情はいくらか和らいでいく。新鮮な空気を吸ううちに、ウォルラスも少し落ち着いてきた。
 どこかぼやけていた視界がはっきりしていく。
 ブラッドを見るとき、霞がかっているわけでもないのに、どこか薄い膜を感じる。それはウォルラスの問題ではなく、相手が意識的に作り上げている壁だろうと思う。あからさまに拒絶したりはしない。けれど決して、深く立ち入りはしない。立ち入らせもしない。分からないように巧妙に、けれども明確に線引きをしている。
「あんたは笑わねぇよな」
 昔から、思ったことはそのまま口にしてきた。だからこのときも、ウォルラスは素直に思ったままを口にした。
「まだ駄目か」
「まだってなんだよ、まだって」
「言われて練習するようにはなったんだけどな、これがなかなか難しい」
 練習って笑顔をか?
 そんな、商売女じゃあるまいし。愛想が売りの看板娘でもないだろう。
 頭の中を目まぐるしく思考は駆け抜けるけれど、そのどれもちゃんとした言葉にはならなかった。だから口をついて出ることもなかった。笑わない傭兵仲間だって今までにだって少しはいたじゃないかと、そんなことで誤魔化して。
 笑わないことが不思議なんじゃない。
 本気で取り戻そうとしているようには見えないのに、手探りでそれを思い出そうとしているところが、うまく言葉にはできない鉛をウォルラスの臓腑に落とす。
 酒が必要だと思った。
 あの火酒よりも強く強く、酩酊できる酒が。
「……確かでかい依頼あったよな」
「川近くの洞窟に潜んでる魔物討伐のことか。手ごわいらしいな」
「あれ行こうぜ」
「じゃあ仲間をまた募らないとな。前回来てくれた奴らにも声をかけてみよう」
「俺ら二人でもいいだろ」
「そんなわけにはいかない。どんな魔物か、実際に見るまでは分からないんだから万全を期すべきだ」
 ブラッドは珍しく強い口調で言った。こと戦いに関しては、目つきが変わる。本人に自覚はないらしいが。
「……わかったよ」
 その紅い瞳に強く見据えられると、ウォルラスは頷くしかなかった。ブラッドの方が強く、経験もある。その点では素直に尊敬している。戦う姿を見れば目が離せなくなる。けれど共にいると全く色の違う感情が去来する。それは酒では流しきれない。
 別のものでまぎらわすしかなかった。



 後日、ブラッドとウォルラス、他数名によって即席の部隊が結成され、魔物が棲むという洞窟へとやってきた。周囲の気配は不気味に静まり返っている。
 すぐに討伐へ向かおうとしたウォルラスはブラッドに数日足止めされていたせいで、武器を持つ手に力がこもる。やっと暴れられるという思いが全身を支配する。
 洞窟の入り口で一歩を踏み出しかけたとき、ブラッドが声をあげた。「待て」
「あ? なんだよ」
「闇雲に飛び込むべきじゃない。みんなで入るんだ」
「全員で入って何かあったら大変だろうが。俺が先陣切って様子を見てきてやるさ」
 はやく戦いたい。戦って戦って、魔物をなぎ倒したい。その死骸を踏みつけて高らかに武器を振り上げれば、どんなにか胸がすくだろう。魔物と一緒に、わけのわからない感慨は殴り殺すのだ。
「大事なのは間合い。いつも言ってるだろ」
「またそれかよ」
「待てと言ってるだろ」
「んだよブラッド、俺がやられるとでも思ってんのか。俺が弱くないのは知ってるだろ」
 今はこうしてブラッドと戦うようになったが、それまではひとりで戦うこともあった。ひとりで、多くの魔物を屠ってきた。ウォルラスにはその矜持がある。
 引きとめようと僧兵の腕を掴んでいたブラッドは、じっとその瞳を見据えたまま、問うた。
「おまえは本当に強い心を持っているのか?」
 強い心? 当たり前だ。
 強くなければ、たったひとりで魔物に立ち向かうものか。たったひとりで、つまらない僧院から世界へと飛び出すものか。強くなければ。
 強くなければ。
 ウォルラスは頷いた。何を今さら、と思った。だからそのままブラッドの腕を振りほどき、後ろも見ずに洞窟の奥へ駆け込んだ。背後の音には頓着しなかった。ただ倒すべき敵を見つけることに集中した。
 じめじめと湿った空気が充満している。
 洞窟の地面には、元々は家畜だったらしき骨が転がっている。それとは違う、もっと大きなものもある。別の魔物のものかもしれない。どんよりと重たい空気の中心へと進むにつれて、ウォルラスの足取りも重くなっていった。武器と松明とをしっかりと握り締める。頬を伝った汗が、顎の先から滴り落ちる。
 ―ぎらり、と。
 確かに闇の中に、赤い光が閃いた。そう気付いたときにはウォルラスは松明を投げ出していた。それでも炎は消えない。魔法使いに作らせた特別製だ。だから両手で武器を構えたときも、ウォルラスにはその魔物がしっかりと見えていた。
 想像を絶する巨体。
 魔物も彼を視認した。視線だけで喉元に食いつかれたような錯覚に陥る。目を鋭く細めて、ターコイズドラゴンはウォルラスをただ見下ろしている。それだけだ。それだけのはずなのに、動けない。首から下が切り落とされてしまったかのように、何も感じない。ただ頭の奥が痺れている。
 恐怖。これが死の恐怖。
 未だかつて、これほどまでの殺気に出会ったことがない。目が合っただけで喰われてしまうと確信したことなどない。おそらく生まれてはじめて、ウォルラスは絶望に目をつぶった。
「―ウォルラス!!」
 その声は、洞窟内に力強く響いた。
 目の前に踊ったのはドラゴンの尾ではなく、ブラッドの黒色のマント。見えるのは、魔物の牙ではなくブラッドの背中。
「しっかり見てろ!」
 ブラッドは続けてそう叫ぶと、魔物に斬りかかった。
 その刃はドラゴンの首元に届いた。けれどあと一歩、深さが足りなかったらしい。近くまで迫ってきたブラッドを、強靭な顎が捉える。牙が胸当てを突き破る。暗闇の中では黒い液体にしか見えなかったが、それは確かにブラッドの血だった。普通ならそこで倒れてもおかしくはないほどの傷だった。
 けれどブラッドは倒れなかった。退かなかった。
 決して剣を引かず、尚一層ドラゴンの首筋に剣をめり込ませようとしたとき、衝撃波が魔物の巨体を殴りつけた。はっと隣を見れば、いつの間にか巫女が駆けつけていた。その後ろには魔術師が控えている。続いて駆け出したのは戦士だった。叩きおろされた剣は、ドラゴンの片目を潰した。魔物が痛みに喘ぐ。ブラッドの胸からずるりと牙が抜ける。一瞬彼の身体が傾いだ。黒の色彩がぼたぼたと滴り落ちる。けれどやはり、彼は倒れなかった。そのままブラッドはあらん限りの力を持って、剣をドラゴンへと突き立てた。
 断末魔が洞窟を震わせる。
 魔物は虚しく身体をうごめかせたあと、しばらく小刻みに震え、やがてぴくりとも動かなくなった。その屍のすぐ傍で、ブラッドは静かに佇んでいた。血がとめどなく流れている。一目で重症だと分かるのに、彼は未だ自らの足で立ち続けていた。ウォルラスはただ呆然とブラッドを見上げる。
 紅の瞳が、魔物と同じであっても決して同じではないその瞳が、静かに僧兵を見つめていた。恐怖に支配されていた男を。ブラッドに、己に、恐怖を感じることにさえ怯えていたひとりの若者を。
 今まぎれもなく、ウォルラスは恐怖していた。いつだって恐怖してきたのだ。目の前の男の心が読めずに。とても追いつけないと知ることに。自分は弱いのだと思い知ることに。
 だから戦いに逃げた。恐怖を感じることさえ忘れようとした。そしてそのことを、目の前の男はきちんと分かっていた。
 やがてブラッドは静かに言った。
 既に何度も伝えてきた教えを。
「大事なのは間合い。そして退かぬ心だ」
 そのときウォルラスはよく分かった。この男が強いのは当たり前だと。戦場で生きて帰るのは当然だと。不死身だからってだけじゃない。
 ブラッド・ボアルは、誰よりも強い心を持っている。

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