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昼間から酒場に入り浸るやつはろくでもない。
そのろくでもない人間の仲間入りをしているウォルラスは、頬杖をつきながら、ぱちぱちと弾ける麦酒の泡をぼんやりと眺めている。やがてそれにも飽きて、酒場をぐるりと見渡してみる。いつもならば、こういう時には白い肌をした男が目の前にいるのだが、今日はその姿はない。だから見晴らしは良かった。
昼間とはいえど、多くの人間でごった返している。傭兵に娼婦、堅気の者もちらほらと。そろそろ日が落ち始めるから、もっと人は増えるだろう。
ふと、遠くの席に座っていた栗毛の女が目に入る。光の加減のせいか、その瞳が燃えるような紅に見えた。瞬間、はっと息を呑み、しかと確かめようとウォルラスは身を乗り出した。紅の瞳など珍しい。加えて全体的に色素が薄いところなど、ブラッドにそっくりだと思った。
女が視線に気づいた。正面から見た瞳は、当然ながら紅ではなかった。女は不躾に見つめていたウォルラスを検分したあと、しなを作ってみせた。どうやら僧兵がお気に召したらしい。けれど反してウォルラスは、大きく息を吐いた。肩から力が抜ける。女は誘うように手をひらひらとさせていたが、付き合うような気分にはとてもなれず、そもそもそういった意図で見つめていたわけではないと首を振る。彼女は当然怒ってしまったようだった。何もかもが面倒くさくなって、すっかり泡の飛んだ麦酒を流し込む。
ああもったいない、結構美人だったのに。
「よかったのか?」思わず脱力して席につっぷすと、背後から声がかかった。「誘われてたぞ」
「しかたねぇだろ、気分がのらねぇん―」
振り向きざまに続けようとした言葉は、あっけなく消えた。代わりに、ブラッド、と口の中で唱える。宿で寝ているはずだった。看病の真似事などしてみようとしたが、大丈夫だからと当の本人に促されて酒場を訪れたのが太陽が中天にさしかかった頃。いかに不死の身をもつブラッドといえど、今回の傷は深かったというのに、何をしているのだろう。無理して来たのが丸分かりだ。
「……もういいのかよ」
「寝てばかりもいられないだろ」
「傷、残るんだよな」
「たぶん」
「そうか……」
近付いてきた酒場の看板娘に、ブラッドは消化のいいものを頼んだ。好みがまるで老人のようだ。元々の嗜好なのかどうかは知らないが。黙って何かを食べている姿からは、不老不死なんて想像もつかない。
長いときを生きてきた男。
これからも生きていく男。
多くを知り、多くを見送ってきた。そんな男に、生まれてまだ二十年も経っていないような若造がどう太刀打ちできるというのだろう。胸に深く残る傷跡をつけて、人ひとり躊躇わず救っておいて、とんでもない貸しを作っておいて、尚ブラッドは普段どおりだ。
それがたまらなく、腹立たしい。
気付いたら、唇の隙間から言葉が零れだしていた。
「まぁあれだな、これで俺がどっかでのたれ死んでも、あんたはわざわざ刺青を彫らなくて済むってもんだろ」
その傷跡が墓標になる。ブラッドがその身に刻んだ数多くのそれに並ぶものになる。これは到底、命の恩人に投げつける言葉ではない。それでも、ウォルラスは言わずにはいられなかった。
「……そうだな」
「それだけかよ」
「他にどう言えと?」
「わからねぇけどよ、もっと他にあんだろ」
「お前も少しは言葉を選んだらどうだ」
ブラッドが眉根を寄せる。さぞかし不快だろう。けれどその不快さの原因の大半は、命を救ってやった相手が可愛くない言動をしたから、ではない。そのことが、ウォルラスには手に取るように分かった。
そのことだけは、はっきりと分かった。
「あんたはいつもそうだな」
「何がだ」
「いつだって、なんでもないって顔してやがる」
それが腹立たしい。哀しい。恐ろしい。
たまらなく、遠い。
「……俺にどうしろっていうんだ」
「少しは怒れ」
間髪入れず、ウォルラスの口から言葉が滑り落ちた。それは彼自身の臓腑にもすとんと落ちる。ただブラッドを怒らせてみたかったんだと。
「怒る?」
「あんなこと言われたら、普通怒るだろうが。俺だったら殴るね。一発殴る。いや、十発は殴る。こっちは一生消えない傷跡がついたんだぞ、命助けてやったのにその言い草はなんだ、ってよ。それがなんだよ、あんな一言で済ませやがって! 第一、俺に貸しを作ったんだ、もう少しくらい何かないのかよ? それともあんたにとっちゃ、全部その程度のことなのか?」
いずれ過ぎ去ってしまうだけの、もの。
その程度でしかないのだろうか。
永遠を生きる者にとっては。
「……すまない」
「だから何で謝んだよ!?」
「俺は貸しだとは思ってない」
「ハァ!?」
いまいち会話が噛み合っていない。怒らせたかったはずなのに、ウォルラス自身が誰よりも怒っている。
「借りだなんて思わないでくれ。どうせなら『恩』にしてくれ」
本当に、噛み合っていない。
「……恩?」
「そうだ。そのほうがいい」
「なんでだよ」
「なんとなく、かな」
そちらの方が収まりがいいと言う。
それをブラッドは本気で言っているのだろう。それが分かってしまうから、ウォルラスはそれ以上何も言えなかった。心が震えているのが分かる。
嬉しいのだろうか。
それとも、哀しいのだろうか。
ただ分かるのは、この恩を返さないといけないということだけだった。到底返しきれないこの恩を、この男に必ず返すのだ。一生をかけて。死ぬまでこの男の傍にいて、この男を支え、この男を守る。怒りも悲しみも喜びも、すべてを共有しよう。彼がそれを取り戻せるように。
ああくそ、随分と大きなものを背負っちまった。
けれどそれは、嫌なものじゃない。重くはある。哀しくもある。不謹慎ながら、それとは別の感情もある。けれど決して、嫌ではない。
「……とりあえず、さっきは悪かった」
「さっき? 何がだ?」
「おいおい勘弁してくれよ」
「だから何がだ」
「だからその……さっきの、刺青のことだよ」
ああ、とブラッドは一拍遅れて呟いた。無意識なのだろうか、そっと指が模様に触れる。身体中に刻まれた悔恨の証。全身に広がった、夥しい数の死。
どうしてそんなものを刻むのかと、ウォルラスは一度だけブラッドに問いかけたことがあった。そんな痛々しいものは、もう充分じゃないかと思ったのだ。
忘れないためだ。
ブラッドはそう答えた。忘れたくないんだ、とも。
けれどそんなのは墓標を担ぎながら生きるものではないのかと、ウォルラスは思う。自ら背負ったとはいえ、重いものは重い。それでも尚、ブラッドは背負うことをやめない。不器用にそれを貫く。
それは長い時をひとりで生きるに必要なものだ。
「別に気にしてないさ」
「俺は気にするんだよ!」
思わず叩きつけるように叫ぶと、ブラッドはまたすまない、と呟いた。謝罪の言葉が聞きたいわけじゃない。言わせたかったわけじゃない。
ままならない己の言葉がもどかしい。
「……いいか、これだけは言っとくぞ」この男に今言える言葉は一体なんだろう。一番大事な言葉。抉って広げた傷跡を、せめて隠すための。「俺の恩の証が、墓標になるなんて真っ平だ」
だから、とウォルラスは呟く。
「俺が別のものを用意してやるよ。あんたのために」
その重みが生きるに必要なものだというのなら、そんな哀しいものだけではなく、もっと別のものを。たとえ最終的にブラッドを置き去りにするのだとしても。
だって彼は、笑おうとしているじゃないか。
「……別のもの、か」
それはなんだ、とブラッドは問うた。
あんたの欲しいものだ、とウォルラスは応えた。
ブラッドはしばし口元に手をやり、沈黙する。じっと考えている。ウォルラスは辛抱強く待った。やがて紅の瞳が僧兵を捉えて、言った。
なら、そうだな。
俺たちの部隊をつくらないか。
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