Dum Spiro, spero
04

 針が皮膚に刺し込まれると、ぐっとその下の筋肉に力がこもったのが分かる。けれど同じ所作を繰り返すうちに、ブラッドの身体から力が抜けていく。出てきた血を拭い、また針を刺す。ブラッドの白い肌に、色を入れていく。それを繰り返す。
 まだ冬が始まったばかりの頃、ツクヨが描きあげた図案を見ると、ブラッドはそれでいいと言った。気に入らないならいくらでも描き直すと言ってあったが、ツクヨが一番最初に見せたものでブラッドは満足したようだった。彼女自身、かなり自信があった意匠だっただけに、それは素直に嬉しく感じた。
 そして、暇つぶしだから報酬はいいと言ったのに、仕事だからといくらか手渡された。ブラッドは心持ち笑いながら言ったものだ。
 油断しちゃいけないんだろう、と。
 それを聞いて、ブラッドはよく分かってる、とカロンは笑った。報酬を受けたからには仕事になる。そして一度受けた仕事であるからには、きちんとやり遂げるのがツクヨの矜持だった。
 そうして北国の長い冬の間、特に大きな襲撃もなく、毎日少しずつ掘り進めて、もう完成というところまできた。今日の分を終えれば、仕事は完了だ。
「……よし、こんなもンだろ」
 ツクヨは寝台に伏すブラッドの背中を眺めて、満足そうに頷く。全ての模様がきちんと塗りつぶされている。色むらはない。ただじっと見据えてくる顔が、そこにはある。
「終わったのか?」
「ああ、完成さ」
 ブラッドはゆっくりと、その身を起こす。自分では見えない位置にあるが、事前にツクヨが持ち込んだ姿見でそれを確認する。質のいい姿見ではない。
 けれど充分だった。
 ブラッドは満足したように、ツクヨの顔を見て頷いた。
「これはどんな意味なんだ?」
 この質問は、掘り始める前にも一度された。そのときツクヨは、完成したら教えてもいいと応えた。
「どういう意味だと思う?」
「はぐらかすなよ」
「先にブラッドが答えなよ。答え聞いてからじゃつまらないだろ」
「そうだな……」
 ブラッドは肩越しに姿見を見つめたまま、じっと考え出す。その横顔を、ツクヨがじっと見つめている。
 するとノックもなしに扉が開いて、勝手しったる様子でカロンが入ってきた。「おや、完成したのかい」
「まぁね。ブラッドはどっかの誰かさんみたいに過剰に痛がったりしなかったから仕事が速かったよ」
「寝ている人間に無許可で針を刺したくせに何を言う」
「だからって室内で雷魔法を使おうとするのはどうかと思うけどねぇ」
 互いに薄笑いを浮かべながら、カロンとツクヨは相変わらずの軽口を交し合う。ブラッドからすれば、どっちもどっちだ。
「……ああ、無駄話をしに来たわけじゃないんだ」
「そうなの?」
 茶々を入れるツクヨを無視して、カロンは腕組みをしながら告げる。面倒だと思ってるのが丸分かりだった。
「出動要請さ」
 瞬く間に、ツクヨの眼の色が変わる。
「敵は?」
「雪山に一体。その形状から、幻獣族らしい。ただ面倒なことに、町に下りやすい位置で確認されてる」淡々とカロンは続ける。「現在町に在住していて、それなりの戦闘経験があって雪山に慣れているのは、僕らを含めてちょうど七人。少し補助が足りないけどね」
「人の気配に近付いてこられたら面倒だな」
「町に入ってきたら町長あたりが黙ってないだろうね。なるべく研究に支障は出したくないから、さっさと解決したい」
 町を戦場にした場合は、当然給金が少なくなる。元々大したことはないが、ただでさえ乏しい町の財力が復興に割かれるからだ。おそらく他の傭兵たちも同じように考え、準備を整えているはずだった。
 こういう場合、町の傭兵たちの中でも力のあるこの三人が指揮をとることになる。大きな魔物相手となれば、少数精鋭で臨むのが基本だ。
 ただ少し、日が悪い。つい先ほどまで刺青を彫っていたから、疲れが蓄積されているだろう。けれど魔物は待ってくれない。日が落ちてくれば、尚更身動きがとれなくなってしまう。
 行くしかなかった。
「ブラッド、行ける?」
「今日は長時間掘ってたわけじゃないし、大丈夫だ」
「じゃあ、行こう」



 山の天候は変わりやすい。
 けれど運よく、今日は安定しているようだった。すぐ吹雪になるとか、そういったことはなさそうだということで、ツクヨたちは目撃情報があったという場所まで移動する。見晴らしはいい。
 陣形を組みながら用心深く進んでいくと、突然、魔物の嘶きが空中を震わせた。
「―上だ!!」
 翼が空を切る音がした。
 一行の頭上すれすれを魔物が滑空する。とっさにしゃがみこんだツクヨは難を逃れる。他の者たちも無傷で済んだようだ。魔物は一周ぐるりと空に弧を描くと、一行めがけて飛び込んできた。
「散開しろ!」
 ブラッドの合図で、各々飛び退る。人肉を捉えそこねた幻獣族の爪は、冷たい雪を掴んだ。ツクヨは間髪いれずにクナイを大きな翼めがけて投げつける。一本は翼の付け根に、もう一本は翼膜に突き刺さった。続いてアーチャーの放った矢が、胴体を見事に捉える。
 ツクヨの口端が吊り上がった。
 魔物が咆哮した。怒りに震えている。その眼が、痛みと怒りに燃えている。殺してやると叫んでいる。生きることを渇望している。
 ニンジャが雪原を駆ける。頭巾からこぼれ出た金糸が風に靡く。まるで生き物のように翻り、踊る。その輝きに魅入られたように、魔物は執拗にツクヨを捉えようと飛べぬ翼を動かす。嘴が空を切る。大地を蹴りつけ、食いつこうとした蛇の牙を軽やかにかわす。
 ああ、この高揚感。
 いつまでも終わらなければいいと、いつまでも駆け続けたいとツクヨは熱望する。魔物の目が燃える度に、ちぎれた金糸が数本視界の端を掠める度に、危うく捉えられそうになる度に、たまらない喜びが弾ける。細胞という細胞が、切なさに震える。
 けれど夢のときは、あっけなく終わってしまう。
 ブラッドが叩きつけた剣が急所をとらえ、魔物は甲高い悲鳴をあげた。やがてそれは細くなり、耳鳴りのように耳の奥に残った。
 白い絨毯が、魔物の死で汚れていく。
 誰も目立った怪我はしていないようだった。ツクヨ自身、幾筋か髪が犠牲になったくらいだ。あとは少し雪が眼に痛いくらいか。
 仲間の方へ足を踏み出しかけた、そのとき。
 ずるりと、地面が滑った。
 その瞬間、ツクヨはブラッドと目が合った。紅の瞳が見開かれていた。透き通った光だった。ツクヨは手を伸ばした。ブラッドの白い腕を掴んだ。彼を力の限り引っ張った。そして、大地を蹴りつけた。
 ツクヨは飛んだ。


   *


 特定の夢には、特定の兆候があるものだ。
 ツクヨは、これから展開される夢がどの内容のものかはっきりと分かった。何度も見てきた夢だ。
 辺りは森だ。けれど木々は凍り付いている。
 夢の中で、ツクヨはまだ少女だ。彼女の隣には、男が並んでいる。長い髪を高い位置でくくって、腰に刀を差している。顔は見えない。
 何が出てくるか分からない森の中では、余計なお喋りは一切禁止だ。わざわざ音を立てて獲物がいることを教えてやる必要はない。ツクヨがもっと小さい頃は手を引いてくれることもあったが、戦うことを覚えてからはそれもなくなった。
 当時は淋しいと思っていたのかもしれない。
 だから彼の手をよく覚えている。
 大きい手だった。刀を長年振るってきたからタコができて、不恰好な手だった。細かい傷も沢山あった。けれどあたたかい手だったように思う。
 その手がツクヨをひっつかんだ。
 彼女はそれにひどく驚く。そんな風にされたことは数える程しかなかったから。けれど驚く余地があるのは夢の中だけで、当時はそんな余裕はなかった。
 彼はツクヨを小脇に抱えると、跳躍した。視界がぐらぐらと揺れて、彼女には何が起こっているか分からない。定まらない視界を何かが横切って初めて、何かが振ってきていると知る。状況を少しは理解できたと思ったら、今度は乱暴につきとばされて、樹に思い切り背中をぶつけた。とっさに頭をかばう。
 地に伏せると、大地が揺れているのがわかった。
 その揺れが収まったことを確認すると、ツクヨはようやく顔をあげた。消えてしまった彼を探した。
 その青い装束はすぐに見つかった。
 大きい岩の下敷きになっていた。悲鳴をあげて、駆け寄る。何度も彼の名前を呼んだが、応えるのは滴り落ちる紅の滴だけ。助けを呼ばなきゃ。でもどうやって?
 やがて小さく彼の瞼が震えた。しゃがむツクヨを、そこから数段低い位置から見上げる。唇が動く。


 ツクヨ―

 
 ブラッドの呼ぶ声がした。
 ぼんやりと輪郭を失った意識の片隅で、確かにその声を聞いている。でも、あまり起きる気にはなれなかった。あの突き抜けるような高揚感とは全然違うが、ここもたまらなく心地いい。
 反響していたはずの彼の声が、いきなり近くで響く。
 そのあまりの近さに面食らっていると、ツクヨを引き上げる腕があった。すると全身が悲鳴をあげる。ここから離れたくないと、全力で叫んでいる。
「ツクヨ! ツクヨ!!」
 不躾に顔に触れているのはブラッドだろうか。
 全身が痛いだけでなくて、名前を呼ばれるだけで耳から頭の奥がひどく痛む。やめてほしいのに、ブラッドは執拗に叫び続ける。まさか目を開けるまで呼び続ける気だろうか。
 冗談じゃない。
 白い闇のなかで瞼の感覚を取り戻す。やけに重たいそれをどうにか持ち上げると、あまりに強い光に目を焼かれるかと思った。
「ツクヨ! 気付いたのか!」
 どうやら抱き上げられているらしい。ブラッドの顔らしきものが近くにある。まだ視界はぼやけていて、あの紅が見えなかった。
「なんで俺を庇ったりしたんだ!」
 叩きつけるような悲鳴。
 また当り散らしてるのかと、おかしくなる。
「俺は死なないんだ。傷はすぐ治る。だから庇ったりしなくてよかったんだ」
 知ってるだろと、また悲鳴。
 ああそうだっけ。そうだったっけか。
 でも別に庇ったわけじゃないと、そう言いたかった。
「なんで俺なんかを助けるんだ……」
 また言わせる気?
 アタシがそうしたいからそうしたンだよ。
 たったそれだけさ。
 いつだってそれだけなんだ。
「………り…て、…す、い…………」
「ツクヨっ? なんだ、何が言いたい」
「…か、り……て…、や…、すい……つ…か…」
 そんな安い言葉は、嫌いだ。
 アタシはアタシのためにしか動かないんだから。
 あんたが死なないとか、ちっとも興味ないよ。
 ただ、あの炎が消えるのは嫌だったんだ。
 だからわざわざ刺青にして、ブラッドの背中に刻み込んだ。消えるなんて許さない。あんな美しいものは、きっと二つとしてない。エンライの炎は私の中にあるけれど、それじゃ私には見えない。だから消えるな。消えてくれるな。それがアタシの願いだ。
 だからこれでよかったんだ。
 戦って死ぬという予定は狂ったけれど、ブラッドの炎は消えなかった。そしてアタシの、エンライの炎も消えない。アタシがそうしたように、この炎はブラッドの中に入り込むだろう。それは彼の背中の刺青に宿るに違いない。そうしてずっと燃え続ける。
 ずっと燃え続ける。



 紅の光がある。
 強い光。強く強く、燃え続ける。
 アタシが焦がれた、あの―

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