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王都につかなければいい。
ずっと頭の中をかけめぐるその言葉に、ユリアナは溜め息をついた。
ユーゲンを迎えての初遠征はもうすぐ終わろうとしていた。王都は目前で、二月もすれば本部へと帰還できるだろう。普段なら喜ばしいそれが、今はどうにも億劫で仕方がなかった。
ちらと視線を前方へとやると、ユーゲンとミナセ、そしてレーゼンがいた。初戦闘以来ミナセはユーゲンと好んでいるようになり、レーゼンもそばにいるから自然と三人でいることが多くなった。レーゼンとミナセが陽気にあれこれ話して、ユーゲンが時折言葉を発する。そんなやりとりが交わされていた。
ユリアナはただそれを見つめている。
今日もまたその様をじっと見つめていると、ふとレーゼンがこちらを見た。目が合うとにっこり微笑まれる。前はなんともなかったはずの仕草に、けれどもユリアナは慌てて目をそらした。
それというのもつい先日、レーゼンに求婚されたからだ。それから妙に意識してしまっている。
君が誰を見ているか知っているよ。
彼はそう言った。でもね、もし僕に少しでもチャンスがあるなら考えてみてくれないかな。必ず君を幸せにするから。
そう言って彼は笑った。
レーゼンはいい人だと思う。
陽気でほがらかで、貴族としての一面も持ち合わせているから女性に対して丁寧だ。結婚相手として見るなら申し分ない。何より彼はこんな自分に好意を持ってくれている。それは純粋に嬉しかった。
最初に会ったのは、魔法都市ウェローだった。ユーゲンが留学するのに合わせてユリアナも留学し、そこで彼に出会った。
貴族、ひいてはシャンルン家だというだけで構えていた自分の壁を、彼はなんなく壊してしまった。それからずっと三人で一緒にいて、他にも魅力的な女の子は沢山いたのに、彼は自分のことを選んだ。ユリアナはそんなレーゼンの心を知りつつ、くすぐったいような心地を味わいながらも、特別なものを何も返さなかった。彼は知っている。
ユリアナが誰を見ているか。
知っていて尚、愛を囁く。幸せにすると。
自分もいけないんだろうなとユリアナは自嘲する。レーゼンの好意に何も返しはしなかったが、拒絶することもなかった。求める相手に対して行動に出ることもなかった。
ユリアナはそっと視線を上げた。また三人を目で追ってしまう。正しくは、ミナセの言葉に耳を傾けているユーゲンを。
そのまま眺めるだけの時間が過ぎ、団長は夜営の準備を指示した。日が傾きはじめている。各々が準備に散る中、ユリアナはただ一人でそっと薬草取りにでかけた。誰にも会いたくなかった。というより、ユーゲンを見たくなかった。
彼は変わった。
分かりにくく拗ねていた彼は、前を向いた。それは自分が何かしたからではなくて、騎士団に入って旅をして、あのサムライに出会ったからだ。しがらみのない生活を知ったから。自分は何もできなかった。
ユーゲンがフェルミナへ行ってしまうまで、一番近くにいたのはユリアナだった。いつだって手を繋いで二人歩いていた。そして引き裂かれ、ウェローで再会したときには何もかもが変わっていた。彼は微塵も笑わず、何かを押し込めたような、それにすら気付かないような顔をしていた。そして、ユリアナのことを忘れていた。
遠くなってしまった。
幼い頃、あんなにも互いの心が透けるようだったのに。憎かった。悔しかった。かつてのユーゲンを根こそぎ奪ってしまった全てが。
シャンルン家など大嫌いだ。あそこに引き取られてから全てがおかしくなってしまったのだ。ユリアナは唇を噛み締めた。滲む血が囁きかける。それは違うわ。違わない。本当は分かってるんでしょ?
彼の心は昔から少し遠かった。今より近くにあったというだけで。
でも私にはなついてくれてたわ。
王都を出てから手紙一つなかったのに?
彼は悪筆だもの、手紙が嫌いなのは知ってるわ。
手紙が書けないから字が歪んでしまったと知ってるくせに。そうやって言い訳して、一体何を取り戻そうとしてるの。うるさい。返事がないのが怖くて悲しくて、一通送っただけで諦めたくせに。黙って。ウェローで再会したとき、もう全部分かってしまったじゃない。うるさいわよ。かわいそうに、留学するという噂を聞いてわざわざ飛んでいったのに。うるさいうるさいうるさい!
――ああ、かわいそうな私。
「うるさい!」
がしゃ、と何かが落ちる音がした。
はっと目をやると、枝を集めていたらしきユーゲンがいた。少し驚いてるようだ。
「あ……ち、違うのよ」
慌てて否定してみせて、けれど一体何を否定したいのかよく分からなかった。
「具合でも?」
「た、ただの耳鳴りよ」
「大丈夫?」
「もう治まったわ、大丈夫」
ありがとうと言う声が虚しかった。明らかに嘘と分かっているくせに、彼は何も言わない。
ただユリアナの手から薬草を預かるだけ。自分だって両手に枝を抱えているくせに。そんなところが好きでたまらなくて、同時に憎かった。
「ユリアナ?」
呼び掛けられて気付く。
彼の袖の端をいつのまにか掴んでいた。はりつめた氷の湖面のような、そんな心だった。
近付きたいのだと思い知る。
「やっぱり具合でも悪いんですか?」
けれどその丁寧な口調に、何かが弾けた。
「私、レーゼンに求婚されたわ」
ああ、何を言ってるの。
こんなこと言ってどうするの。レーゼンから聞いてるかもしれないじゃない。何を期待してるのかしら。
どんな答えを。
「それは……初耳です」
「驚きよね」
「いえ、いずれそうなるだろうと思ってましたよ」
彼は知っていた。知っていて、何も言わなかった。
それはどんな絶望だろう。
「兄上なら、ユリアナを幸せにできますよ」
それは誰と比べてるのと、思わず聞きそうになった。自分よりも、と頭につくのかしら。
ユリアナは知っている。
もしそう問いかけたのなら、兄上でなくとも自分以外の誰かならと答えるだろうと。あまりに遠い。
彼女は彼を見つめた。
もうそれしか手段が残されてないと思った。言葉は滑り落ちていくだけ。言葉なき精霊の声を聞けるユーゲンだから、自分の叫びを聞いてほしいと思った。胸の奥で荒れ狂う、この全てを。
お願い。お願いよ。
少しでいい、ほんの少しでいい。もし私に向けてくれる心があるなら私に示して。例えそれがどれほど小さな火であろうと、私はついていく。死ぬ直前まで待ち続けたっていい。あなたが私を見てくれるのを。
ユリアナは見つめる。一心に、その青みがかった灰色を。くすんだ色に隠された彼の心。
ユーゲンには伝わってるはずだった。何よりも聡い彼のことだから。ユリアナの視線の意味に気付いているはずだった。
だがユーゲンは何も言わない。
ただ視線を返すだけ。目をそらさないのは彼の優しさだった。彼の誠実さだった。誤魔化しも気休めも嘘も、彼は口にしない。口にできない。
ユリアナは悟った。いや、昔から分かっていた。
けれど諦められなかったのだ。みっともなくしがみついていた。目をそらされたのなら救いがあった。迷いがあるということだから。けれどユーゲンの心はユリアナに対して真っ直ぐだった。悲しいくらいに。
そして自惚れることもできないほど、彼を見つめてきた自分が悲しかった。誰より彼に惹かれながら、彼を遠ざけていたのは自分だった。
ユリアナは手を離した。
もう、行って。
笑おうとして失敗したのは分かりきっていた。でも泣くこともできなかった。指差した先の景色が揺れている。
ユーゲンは立ち去った。
魔術師の後ろ姿が木々に消え、風と鳥の声しか響かない段になってようやく、ユリアナは自らを許した。ぺたんと地に座り込み、涙が頬を撫でるのに任せる。次から次へと流れ出る涙を止めようとは思わなかった。
全部流してしまおう。そう思う。
幼き日々から降り積もってきたもの全て、涙に流すのだ。
そうやって全部流して空っぽになって、新しく彼と向き合おう。家族としてならきっと、上手に笑いかけることができるはずだから。
その日、彼女は淡く滲んだ恋に別れを告げた。
「兄上、おめでとうございます」
酒場のどうしようもない喧騒を背景に、ユーゲンはそう口にした。ミナセも同じ言葉を続けて、レーゼンの杯と自分のそれとをぶつけあう。
「実にめでたい。幸せにな、レーゼン」
「うん、ありがとう」
レーゼンははにかんで答えた。その顔は実に幸せそうで、いつもより表情筋が上へ上へと持ち上げられているようだ。騎士団全体での宴は昨日終え、今は三人だけで飲んでいる。
王都に帰還した次の日、ユリアナとレーゼンは晴れて付き合うことになった。結婚を前提に、ということで恋を勝ち取ったレーゼンはひたすら嬉しそうだ。
「まさかユリアナが相手とは思わなんだ」
「僕の五年越しの恋が実ったんですよ」
ふふふとレーゼンは嬉しそうに笑う。出会ったのは五年前のウェローで、などと訊いてもいないのになり染めを語りだした。
「のうユーゲン、これからはユリアナを姉さんと呼ばねばなるまいな?」
実に楽しそうにミナセがそう口にする。こっそりと耳打ちされたそれに、けれどユーゲンは苦笑を滲ませる。
「昨日そう呼びかけたら殴られましたよ」
「ちょっと、僕の話聞いてるのかい?」
「おお、すまぬすまぬ」
ミナセは大人だなとユーゲンは思った。自分なら適当に流してしまうだろう兄の話に、嫌な顔一つしないで聞き入っている。ちゃんと相槌を打って、時には質問やからかいを織り交ぜて。
兄なら大丈夫だと、ユーゲンは思っていた。
レーゼンはきちんと誰かを想えて、幸せにできる人間だ。自分とは大違いだから。
ユリアナは幸せになる。それは絶対だった。
「早く結婚して子供欲しいなぁなんて思っているんだよね。そしたら僕は父親に!」
物思いにふけっている間に、レーゼンは随分と酒が進んだらしい。顔を真っ赤にして、若干怪しい呂律で当たり前のことを叫んでいる。
「おお、子供はよいぞ。こう、赤ん坊をはじめて抱いたときはな、取り落としてしまうんじゃないかと思ったものだが」
今ではいっぱしの口を利くようになったとミナセは笑う。そんな彼は三児の父で、もうすぐやってくる祝福の日には双子の姉妹が、その更に四年後には長男が入団してくるとのことだった。
「ユーゲンはどうなのだ」
出し抜けにミナセが訊いてきた。誰か想う相手はいないのか、と。
「僕は自分のことで手一杯ですよ」
ユーゲンはただ肩をすくめる。
その返答に、まぁまだ入団したばかりだしなとミナセは笑った。彼も随分酒が回ったらしい。
「今は旅が楽しくて仕方ないといった感じか?」
「まぁそんな感じですね」
嘘ではなかった。
かつてないほど充実していると言っていい。楽しくて楽しくて仕方ない、といった感覚とは違ったが。果てのない空と、ただ生きているような大地と、何もかも飲み込みそうな海と。その全てを目にする度に、悪くないと思った。
まだまだ旅ははじまったばかりだが、ミナセの言った通りだと思った。
一度味わってしまったら忘れられない。
兄も父も、他の誰もが経験した、えもいわれぬ開放感。それが不思議とユーゲンの身体の奥まで染みた。
自分はおかしいのかもしれないと少し思う。
ミナセもレーゼンも、旅の魅力に惹かれながら家が一番だという。帰る家あってこその旅だと。けれどユーゲンはいつまでも旅をしていたいと思った。ずっと新しいものを見ていたいと。
「ほれ、飲めユーゲン」
「そうだ、飲め、飲むんだ弟よ!」
「……勘弁してください」
なんにせよ、旅は始まったばかりだ。
仲間内で飲む楽しさというのも少し分かりかけてきた。飲まされるのには閉口させられるが。それと酔っ払いの相手と後始末も困りものだ。……やっぱりあまり楽しくないかもしれない。
飲み会の帰り道、ミナセと一緒になって兄を引きずりつつ、ユーゲンは一人苦笑いをした。
楽しかろう?
ミナセの満面の笑みに悪くないですねと返して。
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