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兄と聞いてまず思い浮かべるのはひとりだった。
深緑の瞳を優しく細めて抱き上げてくれる一番目の兄は大好きだったけれど、くすんだ色の瞳は苦手だった。分かりやすい交流はなく、子供心に天才と唱われた次兄が怖かった。
兄二人の顔を思い浮かべつつ、イリアネ・シャロワはそっと息をついた。
彼女は騎士団に合流するために、同年入団のチトセ・エンライと共にメゾネアへと向かっていた。祝福の日まではあと一月ほど。期待や不安で心中は複雑だった。何より次兄たるユーゲンと会うことが最たる不安の種だった。
「ユーゲン殿は不思議な御仁よな」
ふと、チトセがそう言った。
兄弟らしい接触を持ったことはない。ユーゲンはいつも背中を丸めて本を読んでいるか、屋根の上で空ばかり眺めていた。そんな兄が苦手で怖かったが、嫌いではなかった。
憧れていた。
精霊たちの囁きをいつも間近に聞いていたから。彼は優しいと。向き合って話をしてみたかった。
「そうね」
だから知りたいのよとは口には出さなかった。近付きたいのだとは。
「父上と共に屋敷へ来ることがあったが、何を考えているのかいまいち分からなくてな……けれどその魔法の素晴らしさは目を見張るばかりだった」
チトセは熱に浮かされたように喋った。その様をじっと見つめる。熱でもあるのか、顔がほんのり赤い。
よく似ていると思った。
五年前、自分の頭を優しく撫でてくれたサムライと。屋根の上で交される精霊の囁きに誘われて起きた自分を怒るでもなく、笑いかけてくれた人だった。当然だろう、彼の息子なのだから。温かさの滲む目元は実に好感を持てた。
「兄様は、あなたのお父上と精霊を下ろしているのよね……」
それは昨年のこと。イリアネは随分驚いた。
羨ましいと素直に思う。少し妬ましく感じられた。精霊に愛されたユーゲンにか、彼に触れ合える精霊にかは分からなかったけれど。
チトセが何やら言ってきたようだが、もはやイリアネの耳には入らなかった。ただ早くメゾネアへつかないかと願った。兄のことを知りたかった。少しでも多く。記憶の中の兄はいつだって無表情だったから。
だからアクラリンドからメゾネアへと戻った騎士団と合流したとき、イリアネは目を見張らざるをえなかった。ほんの一瞬だったが、視界の端に笑うユーゲンを捉えたのだ。
自分に向けてじゃない。満面の笑みじゃない。仕方ないなといった風に、隣にいるサムライに苦笑していた。
チトセはそんな二人に驚いた様子もなく、父上と叫んで走り寄っていった。レーゼンが何か言ってきたが、またしても半分も頭に入らなかった。
兄の周囲に漂っていたはずの静かな寂しさは、少し薄らいでいた。
ああ、あんな風に笑うのね。
何故だかイリアネは泣きたくなった。
レーゼンが手を引っ張った。引かれるままに、ユーゲンへと近付いていく。
「やぁ、イリアネ」
ああ、そんな風に話しかけてくれるのね。
イリアネはやっと知った。
精霊の言っていた意味を。兄から流れてくる風は優しくて、どこか寂しい。だから惹かれてやまないのだ、精霊も自分も。
感じる風は、どこまでも優しい。
「――これからよろしくね、兄様」
イリアネは微笑んだ。大好きな兄に向けて、十五年かけてようやく。
「拙者の息子は趣味がよかったらしい」
新たな団員を加えての遠征の空の下、出し抜けにミナセはそう言った。彼のそばにはユーゲンしかいないから、当然自分に話しかけているのだろう。
「それ、僕に言ってどうするんです」
「ほれ、またそのような口調を」
「ああ、はいはい。……それで、趣味って一体何のことです。あなたの味覚だけは遺伝していないようにと僕は祈ってますよ」
なんだ、分からぬのか。
ミナセは呆れたような視線を投げて寄越した。ぐいと顎で示された先にはイリアネと、彼女に必死に話しかけるチトセの姿がある。
「あれを見れば分かるであろう」
「……まぁ」
「レーゼンなどは慌てているようだがな。おぬしはどうだ、兄様」
にやにやと、しまりのない顔をさらしながらミナセは問うてきた。いやに今日は絡んでくる。溜め息をついたら彼の思うつぼのような気がして、ユーゲンはぐっとこらえた。
幼い頃、怯えたようにユーゲンを見ていた小さな妹は、何故だか知らないが今は笑顔で接してくる。ユーゲンとしては子供に好かれない実感はあったし、第一どう接していいか分からなかった。それは今でも変わらない。お世辞にも優しいとは言えないだろう。レーゼンのような心配りをしているわけでもないし、できるわけでもなかった。
けれどイリアネは微笑む。にこやかに接してきて、何故だか知らないが懐いてくる。
ミナセは言う。おぬしが優しいのを知っているのだと。冗談じゃない。精霊もなんだかさざなみのように笑うばかりで、なんだか居心地が悪かった。
「いいんじゃないですか、あなたの息子ならちゃんと幸せにするでしょう」
「……ほほう」
「……なんですか」
「いやいや、拙者をそこまで信頼してくれるとは思わなんだ」
「頭わいてんですか?」
「みなまで言うな、照れるではないか」
やっぱりあなたは病気ですね、とは言わない。言うだけ無駄だ。また溜め息を押し殺し、前方に目をやる。チトセとイリアネは至極にこやかに、仲睦まじげに語り合っている。レーゼンがそれを阻止しようと企むのをユリアナが止めていた。隣のサムライは本当に嬉しそうにそれを見やっている。
平和だ。
ものすごく平和だ。
ナグゾスサールの出現が近いと先刻教えられたばかりであるというのに、こんな悠長にしていていいんだろうか。とはいっても、ユーゲン自身も緊張感に乏しいのは十二分に承知していた。
こんな日がずっと続くと、そうはありえないと頭の隅で分かっていながらも、続いていくのだと思わず信じそうになってしまう。
いや、信じていたかもしれない。
あの絶望が彼を襲うまでは。
「カヤが、死んだ……?」
ミナセの発した言葉は、まるで現実味がなかった。どこかの物語の一篇を、そのまま取り出したかのような。呟いた本人はただ字面をなぞっただけといった様子で、ぽかんとしている。
まるで三文小説だ。
妹たちの入団から二年後、二人は結婚。年をまたいで幸せの絶頂期にナグゾスサールが出現し、そしてそれを撃破した。幸せな時期に苦難がやってきて、それを乗り越えて。そしてその先に新たな苦難が。そんなありきたりな小説のようだと思った。
白炎の村に出現した魔将を打ち破り、ウェローへと到着したのが数刻前。王都からの早馬から様々な知らせがもたらされたが、それは思いがけないものだった。
ミナセはただ嘘だ、と言った。
イクハ家の家紋が押印された正式な文書であるのに、彼はかたくなに信じようとはしなかった。
嘘だ。あれだけ元気にしていたではないか。遠征に出るときはいつものように幸あるようにと祈ってくれた。どこも悪くなかった。病気など、怪我すら知らない。
それなのに。死ぬはずがない。
ぶつぶつとミナセは繰り返す。嘘だ、嘘だ嘘だ。
彼の子供達もかたまっていた。母の死の知らせに対してはもちろん、父親の取り乱しようにも。
ミナセはそのまま発狂してしまうと思った。ユーゲンは慌てて彼を宿に押し込んだ。魔術師の非力な細腕よりもたくましい腕は力なく垂れ、為すがままだった。
「のぅ、ユーゲン」
そう呼びかける声は、常と全く変わらない。ただぼんやりと宙を見上げている。何を見てるんです。思わずそう言いそうになった。そこには何もありませんよ。
「あんなの嘘に違いない。おぬしもそう思うだろう?」
「……そうですね」
「カヤとは約束していたのだ。拙者が退団したら共に心ゆくまで過ごそうと。カヤは約束を違えるような女ではないぞ」
だったらなんで、そんな失ったような顔をしてるんですか。どこを見てるんですか。
問いかける声はどこにも馴染まない。ユーゲンの胸の底に沈殿していく。どこにも行き場所がない。それはミナセも一緒だった。彼は迷子だった。
帰るべき故郷を喪って。
そのままミナセは一見普段通りに振舞っていた。元から魔将を破ったら王都に帰還するだけの行程だった。ただ速く王都にとイラつくぐらいで、不気味なほどミナセは静かだった。
誰も何も言えなかった。
ユーゲンもただ彼が持ち崩さぬようにと願うばかりだった。彼女の死を理解させようとする者もいないではなかったが、意味を為さなかった。それはいずれ知れると皆知っていた。
どうするのだろうと、そればかりが脳内をかけめぐっている。今はまだいい。けれど真実を知ったとき、ミナセは一体どうなってしまうのだろうか。
彼は強い男だと思っていた。ほがらかで、大雑把で、優しく、強いのだと。でも違った。愛するものを喪ってしまうと、彼はこんなにも弱い。
支えてあげて。
カヤは以前ユーゲンにそう言った。そのときは何も応えられなかった。今だってそうだ。何をどうしたらいいか分からない。
ただ分かるのは、ミナセに必要なのはカヤであって他の誰かではないということ。
精霊を下ろしたという己も、とんだ役不足だ。
なんのための精霊だ。
ユーゲンは自嘲混じりにそう呟く。絆を認めたからだというが、それは嘘だ。こんなにもミナセとはかけ離れている。彼を支えられるような人間では、自分は決してない。
どれほど願っても、足を進めなければならない。いずれその日はやってくる。騎士団の全員にとって、そしておそらくミナセ本人にとって一番恐れていた日だ。
セルシウス騎士団は凍てつくような寒さの中、ナグゾスサールを撃破した英雄として民衆の寒さにそぐわぬ熱烈な歓呼を受け、帰還した。
ミナセは静かだった。
何も言わず、ただじっと墓石につづられた碑文を目でなぞっているようだった。ユーゲンは数歩さがってその様を見やる。共にやってきた彼らの息子たちは、土の下に眠る母よりも父を恐れるように見ていた。
どれほど時間が過ぎたろう。身を切るような風がいよいよ辛くなってきた頃、ミナセはぽつりと言った。
「ひどいではないか、カヤ」
拙者を置いていくなど。
それから先は言葉にならなかった。ただ彼は静かに涙を流していた。静かに、静かに。
やがてユーゲンは墓地に背を向けた。
その背後では家族全員がぴたり寄り添って、悲しみを降り積もらせていた。空から舞う白雪のように。一緒に泣けない自分がひどく惨めな生き物のように思えて。
「大丈夫だったかい?」
本部へと帰りつくと、レーゼンが伺うように問いかけてきた。彼ならあるいは泣けたのかもしれない。
「ちょっと、あなたの方がひどい顔じゃない」
「大丈夫ですよ、僕は」
ユリアナのお節介を遠ざけて、レーゼンの優しさに見ない振りをして、ユーゲンはどうにか部屋へとたどりついた。ミナセが一度も使ったことのない、ユーゲンの本置き場と化している寝台があった。そこに腰掛け、ぼんやりと宙を眺めてみた。
視界に映るのは天井だけ。そこに空はない。
歪な空と、全く空が見えないのと。どちらが果たしてましだろうか。けれど比較など無意味だろう。旅の空を知ったあとでは、そんなものは寂しさを増すものでしかない。
ユーゲンは帽子を目深に被った。そのまま寝てしまおうと思った。身体が冷えてしまったようだから。
夢は、見なかった。
散々泣きはらして、ミナセはやっと気付いた。
ここしばらくユーゲンの姿を見ていないなと。葬式も何も既に終わってしまっていて、ここのところ無為な時間ばかりを過ごしていた。
ミナセは久しぶりに家を出た。
ここ数日ですっかり様変わりしてしまった視界に戸惑いながら、本部への道を行く。町並みは以前と変わらないはずなのに、それが確かに分かるのに、何故か急に全てがよそよそしく感じられた。
カヤがいなくなってしまって、すっかり迷子になったような気分だ。
彼女がいなければ何もできないとか、生きていけないとか、そんな甘ったれたことは言わない。それはカヤとも約束していた。けれど淋しくて仕方がない。彼女が退団したときとは比較にならないくらい、心に隙間風が吹いている。
一歩一歩、確かめるようにして歩かなければ倒れてしまうかもしれなかった。もしそうだったならどんなにかいいだろうと思う。実際はきちんと食事をとり、眠り、時々泣くだけで。
いずれ来る別れだと知っていた。けれどそれで淋しさが半減するわけでもない。失われた日と重ね合わせた日々がミナセを同じように抱きしめる。
本部の門をくぐる。なんだか随分久しぶりのような気がした。実際は三日ほどしか経っていないはずだった。今はちょうど他の団員は出払っているようだ。しんと静まり返っている。いちいち軋む廊下に目をやりつつ、ユーゲンの部屋へと急ぐ。そういえば自分の部屋でもあったのだとふと気付いた。
「ユーゲン?」
ノックしても返事はなく、ミナセは仕方なく扉を開けた。魔術師は帽子を顔にかぶせ、床の上で寝ている。本を枕代わりにしているところは相変わらずだった。
「これ、またそのように寝おって」
ろくに毛布もかけずに眠っている。きっとろくに食べてもいないのだろう。明らかに部屋にこもったまま出ていないのだと知れる。
相変わらずだなと、なんだかおかしかった。
「ユーゲン、起きんか」
せめて寝台で寝ろと揺さぶってみるが、全く反応しない。こうやって起こしてやるのはここ数年の日課のようなものだった。一人だときちんと起きるくせに、誰かがいると寝起きが極端に悪くなる。
疲れてるのかもしれない。
きっと、沢山心配させたのだろう。
ミナセは床に座りこみながら、それ以上起こすために手をのばせなかった。毛布をかけてやる。ユーゲンはぴくりとも動かず、目覚める気配はない。
のぅ、ユーゲン。
幾度も繰り返してきた呼びかけを、ミナセは呟く。応えはないのは知っていた。
「拙者は引退しようと思う」
本当はあと一、二年は残ることになっていた。けれどもう戦えるとは思えなかった。全身にはりつめていた糸がぷつんと切れたような。
「団長にも、もう話してある」
そして了解をもらった。あれだけ取り乱したところを見せたのだ、当然の処置だろうと思った。幸い補助にも攻撃手にも不自由はしていない。
カヤを思って、静かに過ごしたかった。
カヤを喪って、これ以上旅に出れなかった。
「すまんの」
「……僕に謝る必要なんてないでしょ」
帽子の下から、くぐもった声があがる。ミナセは苦笑いした。
「うむ、そうだな。けれど、すまぬ」
何故だか謝らないような気がして、いや、それ以外の言葉をどうも言える気にはならなかった。
「別にいいですよ」
「子供らを頼んだぞ」
「僕なんかに頼むなんて正気の沙汰じゃありませんね」
「おぬしだからこそだよ」
笑うと、ユーゲンはぶすくれたようだ。そういうのは空気で分かる。分かるようになってしまった。帽子をとらないのはせめてもの意地だろう。
ぽんぽんとあやすようにしてやると、僕は子供じゃないですよなんて呟く。
「そうさのぅ」
ミナセは笑った。淋しくなったらいつでも訪ねてくるがよい。ちゃんと食べて寝るのだぞ。いくつもいくつも小言を重ねつつ。
ユーゲンはしばらく何も言わなかった。
きっと言葉を捜しているのだと思った。あまり感情を言葉にするのは得意じゃないとミナセは知っている。そういう男なのだ。滲み出る優しさを、寂しさを、ミナセはよく知っていた。だから少し心配でもあるし、大丈夫だろうとも思う。
「達者でな」
これ以上ここにいては困らせてしまうだろう。だからミナセは立ち上がった。きっと明日にでもなれば、また呆れたように突っ込みを入れてくるに違いない。そのまま扉へと足を進める。
ミナセも、元気で。
扉の閉じる瞬間、そんな小さな呟きを聞いた。
本当に小さくて、優しい響きだった。
本部の窓から見た空は、小さいけれど青かった。
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