あの白

 時と共に失われていくのが哀しかった。
 忘れないようにと繰り返し記憶の中を泳いでみるのだけれど、それは却って輪郭を曖昧にしていく。忘れたいものばかりが底にこびりついていた。
 あの残酷な白が夢に現れたら、早く目覚めなくてはと思うのに色彩は強まるばかりで。
 目を逸らしたいと思うのに、それは反乱を起こす。一部始終をなぞって、その場面をまざまざと再現する。彼の笑顔は霞んでいくばかりなのに。
 守れなかった。
 気づけば自分はそう叫んでいる。
 気づけば自分はあの雪山にいる。
 憎きモルガロンの咆哮が、この世の何よりも禍々しいものに思えた。その手前に彼は立っている。武器を構え、自分の前に立っている。強すぎる吹雪がそれさえかき消してしまいそうだった。
 我はそなたの前に立とう。そして、守ろう。
 いつかのそんな誓いは捨ててしまっていい。そう叫びたいけれど、声にはならない。自分の声が紡ぐのは、彼を守る魔法。早く、早く。けれど魔力は混乱するばかりだ。分かってる、短時間での補助は一回が限度だ。自分以外の魔力というのは多すぎれば毒になる。防御も攻撃も、補助を受ければそれだけ重くのしかかる。すぐにその場では気づかなくとも。かける方も、間をおかずに使用すれば相手の魔力と交じり合ってしまって、構築が上手くいかない。次の攻撃にも支障が出る。自分はもう既に彼に守りの呪文をかけていた。
 けれど。
「光渦巻く、闇たなびく。彼の者に触れることあたわず!」
 どうしたら諦められるだろう。
 詠唱が終わっても、やはりそれは形を成さなかった。モルガロンが笑ったように見えた。魔物はぐっと胸をそらす。力強く、吹雪をものともせず、雪ごと息を吸い込む。
 だったら私があなたの背中を守ってあげるわ。
 自分はそう応えた。月夜の下、兜をとった彼は優しく微笑んだ。魔騎士という職業柄、彼は恐ろしく思われているみたいだけれど、とても穏やかで優しい人だと私は知っていた。その笑顔が霞む。白に霞む。
 吐き出された火。けれども彼は逃げない。素振りすら見せない。
 何故か。
 背後に、私がいるからだ。
「マナ」
 イヴァレスの雪と、彼の背中と。血と。
 白くすらならぬ息の下、彼はやけにはっきりと自分の名を呼んだ。それは幻だっただろうか。いつもいつも、大事なもののように名を呼んでくれた。でも今はその響きが思い出せない。
 彼は倒れた。
 そのとき自分は悲鳴をあげただろうか。覚えているのは彼の全てを埋め尽くす白だけ。

 私が守ってあげると、そう言ったのに!





 自分の悲鳴で飛び起きた。
 全身に嫌な汗をかいている。けれど瞳は乾いている。この夢を見たときはいつもそうだ。自分は泣いて目覚めることすらない。
 誰が悪いわけでもない。
 過酷な山脈越えでみな疲れきっていた。
 恨み言など、お門違いだ。みんな深く傷ついた。前団長の背中には今も消えぬ、きっと一生残るだろう爪あとがある。彼だけが危地にいたわけじゃない。
 でも、あの白が消えない。
 消えてくれない。

























 彼の墓に供えるのは、いつも白い小さな花を沢山つける薬草。
 いつもそれだけ。















「マナ、これを」
 彼がそう言って白い花を差し出してきたのは、もう木々の葉も落ちきった頃だった。南方への遠征中、一年中を雪に覆われたかの山脈を目の前にして、山越えに備えるための分担作業中だった。
「あら、これ、枝葉を煎じると黄疸に効くのよね。持っていきましょう」
 そう応えて、彼がさっきまで素顔をさらしていたのに、兜を被りなおしていたことに気付いた。そしてどうやら私の言ったことに戸惑っているらしい。落ち着かないとき、彼は手をせわしなく動かす癖があった。
 何か変なことをいっただろうか。
「どうしたの?」
「いや…」
 彼はそういうが、手は肩のあたりを行ったりきたりしている。私はそのままじっと見上げた。彼を見た。やがて観念したのか、魔騎士は消え入りそうな声を出す。
「綺麗だった、ゆえ」
 思いがけなかった。
「…私に?」
 自分にも兜があればいいのに。そう思った。
 もしくは彼がそれをとればいい。自分だけが頬を染めているなんて不公平だ。
「すまない、薬草だとは露にも思わなかった」
「嬉しくないなんて、一言も言ってないわ」
 慌ててひっこめようとする無骨な手から急いで花を取り返して、ぼそぼそと言い訳する。花が一輪散った。地面に舞ったそれを、私は見ていた。彼も見ていた。
 拾おうとして、同時に屈みこむ。目が合う。
 触れ合った指先に、知らず力がこもる。きっとそのときはじめて、大きな手に包まれてはじめて、自分の手が小さいのだと知った。

 それだけでよかった。

























 彼の墓に、白い花を添える。
 すると、花が舞った。あの時のように、一輪だけ。
 だから自分は拾えなくなってしまった。
 かつて触れた手を思い出して。かつてそこにあった幸せを思い出して。

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