白い手

 墓場でマナのあとを追った翌日、マナは少し明るすぎるくらいだった。
「あら、ティーク、おはよう」
「うん…」
「どうしたの、そんな顔して。さてはお腹すいたの? 仕方ないわね」
 ほがらかに微笑う表情なら普段と変わらない。でもその目は、少しだけ赤い。眠れなかったの、とは聞けない。泣いたの、とも。
「なんでもないよ」
 今、僕は結構変な感じに笑ったんだろう。マナが心配そうな目をしたから。それがいたたまれない。自分が大変な時くらい、もっと余裕なさそうにしたらどうなんだ。僕は心配することすらさせてもらえない。
 全てが悲しくて、腹立たしかった。
 でもきっと一番僕を苦しめていたのは、心向ける人に何もできない自分自身に他ならなかった。どうしてもっと、ひたむきに愛せないんだろう。本当なら、想いに気付いてもらえていなくても、誰か他に想う人がいても、それでも苦しんでるなら助けるものだろうに。触れられる距離を、傷ついた自分の心で却って遠くしてる。
「ティーク?」
「森に行ってくる」
 今度は、うまく笑えただろうか。
 背にかかる声はなかった。それに理不尽な怒りを覚えた自分がたまらなく嫌だった。乱暴な足取りで、本部に隣接する森へ向かう。そして、ひときわ大きな木を目指す。
 バリスの家系は王都に居を構えず、代々森の中で幼少時代と老後を過ごす。だから他の団員が知ってしかるべきことを知らないことが多い。マナのことだってそうだ。今はそれが悔しくてならない。もし知っていたなら足踏みをしてしまっただろう。好きになったかどうかさえ不確かだ。でも悔しい。彼女のことを何も知らないんだと思い知らされるようで。
「ティークじゃないか」
「クロイツ先輩…」
 自分以外では唯一の弓の使い手だった。彼はいつもにこやかに笑っている。
「ひどい顔してるね」
「そんなことは」
「マナ絡みだろ?」
 僕はそんな分かりやすいのだろうか。
「分かりやすいね。気付いてないのマナくらいじゃない? うちの奥さんですら気付いてるのにね」
 言葉にしなくても、もう十分伝わっているようだ。思わずため息が出る。
「先輩は、セシルさんと幼馴染みだったんですよね」
「そうだね、俺のが二年遅く生まれたけど、それからはずっと一緒だったかな」
「羨ましい」
 素直に、声が漏れる。
 人生の多くを共有するなんて、今の自分には途方もない。
「色々知っていくのも楽しいと思うけど?」
「そうなのかな…」
「何はともあれ、決めつけない方がいいとは思うけどね」
「決めつけるってなにを」
 問掛けると、クロイツ先輩は口端を吊り上げた。言い聞かせるように。
「綺麗なだけのものなんて存在しないってこと」
 とん、と胸を軽くつかれた。
 ただ指が置かれたという具合だったのに、それは射ぬくようだった。触れられた奥が痛む。ただ、痛む。
 僕はそのまま挨拶もそこそこにクロイツ先輩から離れた。
 綺麗なだけのものなんてない。
 そんなのは僕が一番知ってる。だって僕の心には綺麗なものなんてないんだから。


 僕はまたとぼとぼと当てもなく歩いた。
 祝福の日までもう間もなく。浮足立つ町とは裏腹に、僕の心はぐちゃぐちゃだ。マナを思えば、いつだって心が暴れだす。
 このまま、雑踏の中に埋もれてしまいたかった。
 だがこういうときっていうのは、とことん悪い方へ転がるようにできてるらしい。
「ティーク?」
 ああ、こんな時に知り合いに会うなんて。いつの間にかクリスの実家がある方面にきてしまったようだ。よりにもよって彼女とは。他の人間だったら良かったのに。
「クリス」
「どうかしたのか、ひどい顔だ」
 それは聞き飽きた。
 そう言う代わりに、僕の唇は緩く歪む。
「ユーゲン先輩のこと、聞いてる?」
 これから囁くのは毒だ。人を傷付け、深くえぐる毒。
「ユーゲン? どうかしたのか?」
「退団するんだって」
「―――な、に」
 もしかして知らなかった?と慌てたように響く自分の声を遠くに聞く。この時の僕は、僕が抱える痛みごと誰かに押し付けてしまいたかったのかもしれない。
 そんなことは到底無理だっていうのに。
「ごめん、聞かなかったことに―――」
 彼女は最後まで僕の言葉を聞くことはなく駆け出していった。
 僕は思った。
 果たして立場が逆だったとして、僕はあんな風にマナの元へ走っただろうかと。
 昔の僕なら迷わなかった。
 でも、今の僕は?








 僕はまた森に戻った。
 木々の中にいるほうが心が休まる。息がしやすい。傷付くことも、傷付けることもないから。
 もう誰にも会いたくなかった。
 そのまま日がくれるまでそこにいようと思った。祝福の日を過ぎれば、また否が応でも旅に出なくちゃいけない。そのまま僕は目を閉じる。面倒なもの全部、どこかに押しやってしまいたかった。
「ティーク?」
 いつの間にか寝てしまったのだろう。甘く響く声が僕を呼ぶ。日は傾いていて、のぞきこむマナの顔が逆光で見えなかった。
 彼女の夢を見ていた。
 いや、今だって夢かもしれなかった。
「マナ」
 彼女は微笑っていた。いつも。いつも笑顔で、とても強い人なのだと思っていた。気丈に前を見据えるその横顔が好きだった。夢の中でも現実でも、彼女は自分を見ない。いつも遠くを見ている。でもそういう人なのだと思っていた。隣にいるのは自分だったからそれでいいと思っていた。いつか見てくれると、無邪気に信じていた。
 けれど彼女は泣いた。
 いつもの視線の先に、自分とは別の誰かがいた。
 彼女はその男のために泣いた。自分の記憶の中で、夢の中で、彼女は微笑っている。
「クロイツが夕飯できたって。行きましょう?」
 マナは微笑う。
 去りゆくその手をつかんだ。
 はっとしたように彼女が振り向いた。そんなにも意外だったのか、言葉が出ないようだ。
 思えば、こうして触れるのは初めてで。
「どうし」
「―――ねぇマナ、僕じゃ駄目?」
 微笑わせてしまう前に、言った。なかったことにされたくはなかった。動揺する彼女に畳み掛ける。一度封を切ってしまったら、もう戻せない。
 もう心が一杯だった。知って欲しかった。
「僕じゃ駄目なのかな」
「ティーク?」
「僕だったら置いていったりしないのに」
「なにそれ…」
 彼女の脳裏にひらめいたのは、先日墓前に捧げた白い花だったろうか。
「…もしかして、見たの?」
 哀しげな声がまるで責めるようで、その鋭さから逃れるために僕はさらに言葉を重ねた。荒れ狂う吹雪のような言葉を。
「僕が魔騎士だったら少しは見てくれた?」
 瞬間、マナは僕の手を振り払った。
 大きな目を更に大きくして、彼女は僕を見た。ぽろりと目から雫が落ちる。それが思いがけなかったのか、まるで許されたものではないというようにぐいと袖で拭うと、彼女は走り去った。いつも見せる、戦場から早く背を向けたいのだと言わんばかりの。
「泣かせちゃった」
 呟く声は、風にさらわれる。けれど泣いたのは自分もだった。


 愛してほしい。
 それは僕のわがままでしかないんだろうか。
 本当は、誰よりも愛していたいと思うのに。
 彼女と生きたいと思うのに。
 彼女の幸せな笑顔を引き出せない自分が、なにより哀しかった。













 ティークは夕飯に戻ってこなかった。
 料理を振舞った弓使いのクロイツは「皿洗いはティークだね」と静かに微笑った。けれどティークは深夜になっても戻っては来ず、結局マナルルタとユーゲンで片づけをした。
「どこ行ってるんだろうね」
「さぁ…どこかしらね」
 普段なら心配そうに怒ってみせるだろうに、マナはどことなく落ち着かない様子だった。ユーゲンはちらりと隣を見やると、そのまま黙って作業を続けた。なにかあったんだろうな、と思うにとどめておく。
「……ねぇ、もう十年経ったのね」
「そうだね」
 その十年が何を指すのか、古株の魔術師は正確に理解していた。
 彼の話題をマナがしてくること事態、非常にまれだった。いや、皆無といっていいかもしれない。かの魔騎士を喪ってから、一時期マナは何も話さなかった。在団さえ危ぶまれた。ようやくその表情が戻ってきた時には、彼女はかつての恋人の話題を一切出さなくなっていた。それ以来、彼の名を口にするものはいなくなってしまったのだ。
「あなたにとって、十年は長い?」
「…あっという間だったかな」
 今になって思い起こせば、全ては流れていくようだった。縁を結んだ相手が退団するのも、土の下に眠るのも、たった十年の間に立て続けに起こることさえあったから。
 けれどかつての日々を思えば、その圧倒的な色彩の前に目がくらむ。
 マナもそうなのだろう。だからこそ、今もただ一人で立ち続けているのだろう。退団して新たな人生を歩むことすらせずに。
「マナにとっての、十年は」
 思わず問いかけてみた。普段ならしない質問だった。
 案の定、マナは困ったように首を傾げた。どうだったかしら、そんな苦味とも後悔ともつかぬ呟きを残して。
 その視線の先には、マナ自身の手がある。
 マナは戸惑っていた。
 冷たい水に触れているはずなのに、冷たさに色をなくしていくのに、そこにはさきほど触れたティークの熱がまだ残っているようだったから。

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