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「大丈夫か?」
紅の瞳が心配そうにルネを覗き込む。
彼女の口の端は切れ、頬も熱を持っている。夜の闇の中ではそんなことは目には見えないが、実際触れてみれば分かる。けれどルネは触れてこようとするブラッドをやんわりと避けた。今触れられるのは嫌だった。あんなものを見たあとでは。こんなに力が暴れているときには。
周囲には先ほどまでブラッドに一方的に叩きのめされた男達が転がっている。死んだのかもしれない。伸びているだけかもしれない。ルネは深く考えないことにした。悩んでも仕方ないことだ。
「立てるか? 移動しよう」
いつまでもここにいるわけにはいかない。ブラッドに触れられないのなら自分で立ち上がるしかない。ルネはわななく両脚に力をこめた。
けれど、身体はあっさりとルネを裏切る。
しまった、と思ったときには遅かった。ルネの指先は受け止めようとしたブラッドの腕に触れてしまっていた。いっそ不気味なほど白い肌に刻まれた、数え切れない刺青の一つに触れてしまった。
呼吸を遮られる。
押しつぶされてしまうと、思った。こんな果てのない、底の見えないような哀しみには初めて触れた。終わることのない哀しみだった。終われるからこその救いを、全く知らぬ悲しみだった。ルネの中に入り込み、蹂躙し、それでも尚あふれでようとするそれは、嗚咽となってこぼれ出た。
「どうした」
珍しく慌てたような声が背中に覆いかぶさる。その声音は確かにぬくもりに満ちているはずなのに、どうしてこんなに悲しく響くのか。
それはきっと、見てしまったからだ。
だから触れないようにしてきたのに。極力近付かないように、彼の中のものを見ないように。一度触れてしまったら飲み込まれてしまうと、どこかで知っていた。ただ近くにいるだけでも、ブラッドの寂しさや悲しさは嫌でも伝わってきていた。深く触れてしまったら、壊れてしまうんじゃないかと思うほどの。
「痛むのか」
心配してくれる声が、なによりルネを押しつぶす。裏に隠れた恐怖が痛みを増幅させる。
痛いのは身体じゃない。彼に触れた心だ。
胸の奥が痛くてたまらない。痛くて痛くて、どうにかなってしまいそうだ。彼はこんな痛みを毎日抱えて生きていたのか。不快な熱が胃からこみあげてきて、ルネはたまらず嘔吐した。涙とまじりあって、一体なにが苦しいのかすら分からなくなってきた。
「おい、ルネ……」
気遣ったらしいブラッドが少女の背中をさすってやる。けれどそれは逆効果だった。更なる風に息がつまる。
彼女が目を開けると、そこは真っ白い世界だった。
肌がちくちくと刺されているように痛い。それは寒さだと、一拍遅れて理解する。これほどの寒さを、彼女はそれまで知らなかった。
そこでルネはあるものを探していた。
方角の検討はついていた。ただ吹雪が視界を埋めてしまって、積もった雪が足を絡めとって、なかなか前に進めない。喉の奥からあらんかぎりの声で、ある名前を呼んでいる。探しているのはその人物だ。
やがて白に埋もれた手を見つけ、そして―
その森は静かだった。生き物の気配が全くなかった。
足元には沢山の人影がある。物言わぬ屍たちだ。あとは横たわる巨体もあった。それは敵だった。見たこともない魔物だった。
その中をルネは駆けていた。剣を携えて。
やがて魔物を発見し、一目散に切りかかる。飛沫がルネの頬を汚す。それは魔物の死そのものだった。
子供たちの笑い声がしていた。
それは自分の周囲から聞こえてくる。嬉しそうに、楽しそうに笑い声をあげている。自分にまとわりついてきている。向けられているのは、全て笑顔だ。
そのことが何故だか無性にむずがゆく、幸せだった。
やがて男の子たちに請われ、木でできた模造剣で素振りを教えてやる。女の子たちはまだ鍛錬に参加できない幼子たちの面倒を見つつ、それを遠巻きに見つめている。揶揄するような色はあれど、けれども、そこには温もりがある。
彼らが笑っている。
だから胸の奥にくすぶる何かに、蓋をする。
目の前に白い女が立っている。
あまりに眩しくて、目を開けているのも億劫だ。その女には大きな翼がある。人ではないのだと、分かる。
彼女は女神だった。
女神は大きな本を携えていた。そして言う。
あなたの三百年は―
「―!!」
声にならぬ叫びをあげて、ルネは目を覚ました。
荒く浅い呼吸を繰り返し、きょろきょろと目だけを忙しなく動かす。身体は縛り付けられたように動かなかった。けれど緩やかな振動がある。あたりは暗い。ここはどこだろう。
「目が覚めたか」
「……ブラッド」
「大丈夫か? 気を失ったんだ、覚えてるか」
あまりに強すぎる風にルネの精神がもたなくなったのだ。ブラッドに背負われている今は、心理状態が安定しているからなのか、そこまでの息苦しさは感じない。夢で沢山、ブラッドの心に触れたせいでもあるのだろう。彼の持つ哀しみに深く身を浸らせすぎた。
けれどルネは、ブラッドの背中から降りようとは思わなかった。
伝わる振動が心地いい。染みこんでくる心が優しい。集中すればはっきりと言葉として伝わってくるものもあるのだろうけれど、ルネはそれはしないでおいた。ブラッドの哀しみと怒りと恐怖とを、ただじっと感じていた。
さっき沢山見た光景の中で、先ほどの賊たちと戦うブラッドの記憶もまぎれていた。
あの頭領は、ルネを化け物だと言った。
心が読める化け物だと。未来も過去も、触れればたちどころに見えてしまう化け物だと。そんなものを匿って何になる、実家でうまく使ってやった方が余程本人と周りのためだと。
ブラッドは何も言わなかった。
何も言わず、ルネの力を知って尚、無下に放り出したりはしなかった。ただ不器用に遠ざけようとしただけだった。悲しくないわけじゃない。けれど彼は、ルネを化け物とは呼ばないことを知っている。当たり前のように、知っている。
「ブラッド」
「なんだ」
「あのね、私ね……」
「ああ」
私は。私には。
……違う。そうじゃない。そうじゃないんだ。
「ブラッド……、哀しんでもいいんだよ」
哀しんだっていい。泣き叫んだっていい。恨んだっていい。それはとても疲れることだけど、心を殺さなくていい。殺そうと思っても、殺せない。
「私には、見えるよ」
ブラッドはやはり、何も言わなかった。
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