05

 それは死の行軍だった。
 ヒドラの樹海と呼ばれるその場所は、太陽の光さえ届かない魔窟であった。我らは昼夜の区別さえつかないまま、ただ歩き続けた。それだけで我々の体力は著しく消耗した。終わりの見えぬ行軍だった。
 やがて数日が経ち、おそらく狂った感覚の元での認識なので正確ではなかったのかもしれないが、ひたすら歩き続けた我々の耳は異変を感じ取った。元々雪に包まれた樹海というのは、恐ろしいほど雪に音が吸収される。自分の息遣いと、雪を踏むかすかな音と、わずかな風の声だけが聞こえる行軍だった。それなのに、ある時突然に、どういうわけだかそのわずかな風の声さえ聞こえなくなったのだ!
 それまではわずかな音にびくびくとしていたものだったが、そうなってしまうと、辟易していたはずの生家の喧騒が、王都での騒がしさがとても恋しくなった。ああ、なぜこんな場所にいるのだろう。寒さに震え、絶えず怯えながら、なぜ歩き続けなければならないのだろう。その時心の底から後悔した志願兵は、私だけではないだろう。帰りたかった。暖かな暖炉の火と、優しい母のシチューが恋しかった。
 けれど現実は、ただ行軍を続けるばかりだった。
 ああなんという罪深い行進だろう! 非日常の中に放り込まれ、あるいは自ら望んでそこに飛び込み、あったはずのわずかな日常さえ削ぎ落とされていく。その異常な環境では、正気など手放してしまったほうがいっそ楽だ。けれどそれは同時に死を意味する。無音の白い闇に耐え切れず、多くの同胞が狂って死んでいった。それでも指揮官は前進を指示した。
 この戦争にどれだけの意味がある? 流す血に、積み重なった死に、どれだけの価値がある?
 どれだけ問いかけてみても答えはでない。ただ我々は死へと続く行進を続けねばならなかった。生き残ることだけを考えねばならなかった。
 樹海は広かった。けれどあとで知ったことだが、薄々そうではないかと思っていて信じたくなかったのだが、我々は同じようなところをぐるぐる回っていたのだ。指揮官は我々が恐慌をきたすと思い、ひたすら正しい道を進んでいるのだと振舞おうとし、また彼自身にもそう思い込ませようとしていた。だが実際は、我々は不可解な術に惑わされていたことになる。
 どれだけ歩いただろう。やがて我々は食べるものも気力も何もなくし、むやみやたらに走り出したい衝動にかられた。なんでもいいから森の外へ出たかった。走って走って、家に帰りたかった。母は泣きながら抱きしめてくれるだろう。よく帰ってきてくれたと、妹も言ってくれるだろう。あの厳格な父でさえ、私の肩を叩いて迎えてくれるはずだ。もう一度帰れるのなら、生きて帰れるのなら、いくらだって走ってみせるのに。
 そしてまさに走り出さんとしたその時、私は奇妙な影を視界の端に捉えた。思えば変な話だ。光が差さないと、私自身そう書き記した通りに、樹海はひたすら暗かったというのに。ずるりと、そういった不気味な音が聞こえた気がした。影が動いた。
 誰かが叫んだ。
 隣にいた男が、名前は忘れてしまったが、故郷を守りたいんだと語っていた男が、突如として地面に倒れこんだ。見れば同じ小隊の騎士がひとり、来るな来るなと叫びながら剣を振り回している。白い雪の上に、しみのような赤が広がっていく。
 私はすっかり腰を抜かしてしまっていた。ところどころで、同じように取り付かれたように泣き叫んでいる兵士達が見える。どうにか地面をはいずり、木の根元で身を丸める。みっともなく震えていると、先ほどの大きな影がまたずるずると動いていた。両脚はもはや私の支配下にないとすら思っていたのに、気付いたら私は走っていた。もう何も考えず、ただそこから離れることだけを考えた。
 そうしてひたすらに走り続け、気付いたら私は木々を背に、陽光を浴びていた。

  ◆

 以上に引用したのは、この戦争を経験した作家で、後年に名を残した人物の遺作の一部である。一体どういった状況だったのか、おおまかにしか分からないが、私には充分だった。
 魔女シーラが手記を書いた、といったようなことはなかったようである。手記自体が残っていないという可能性もあるが、過去を文字にすることに意味を見出すような性格でないのは容易に想像できる。
 ただ彼女が記したものとして、作戦書が残されている。それはアルセナ軍との戦闘に際して使われたもので、いかにヒドラの樹海で魔術を効果的に使うかの工夫がなされていた。
『アルセナ軍はシュケル平原を北上し、ケミー山脈を越えて攻め入ってくるものと思われる。ノースランド海にはあらかじめ人為的な霧を発生させ、船での上陸を阻むものとする。
 樹海においては、木々が乱立するために、風魔法によって大規模な吹雪を起こして敵の視界をふさぐという戦法が使えない。かといって火の魔法では火力が弱まるばかりである。よって有効なのは、敵の心理に直接働きかけることである。アルセナ軍が樹海深くに侵攻してきた際、数日間にわたって意図的な無風かつ無音状態を作り出すものとする。尚、樹海の上空に結界を施し、光を拡散させ、敵の時間感覚を狂わせることも同時に行う。雪に不慣れなアルセナ軍を心理的に追い詰め、頃合を見計らって魔術で作り出したヒドラの幻術を用いて同士討ちを誘発する。
 ケミー山脈においては、まず都市部のちょうど東に砦を築くものとする。そこを基点として、魔術での攻防に備える。山脈では、変わりやすい天気を利用して敵をかく乱し、さらには雪の下に魔方陣を隠して遠隔操作で攻撃するものとする。
 力では我々に勝ち目はない。よって遠隔から、主に敵の士気をそぐようにするのが肝要である。もし接近戦になった場合、すみやかに後退すべし。
 以上が作戦の大まかな全容である』
 最後にはシーラの署名が書かれているこの作戦書には、同時に必要な魔術の構築式が付随していて、私から見てもそれは完璧としか言いようがない。彼女の魔術の才能は疑いようのないものだ。アリオーソはシーラに吹雪のような激しさがあると形容していたが、それは正しい。彼女は決して敵に対して容赦しなかった。我らが自然の脅威に、しばしばなす術もなく弄ばれるように。

   ◆

「アリオーソ、作戦は成功よ」
 シーラは当然だといった口調で言った。シーラの提唱した、ヒドラの樹海での作戦は大成功を収めた。本隊を後続部隊から引き離し、孤立化させた上で、壊滅状態へと追いやった。彼女はこういったことは実に天才的だった。悪魔的とすら言ってよかったかもしれない。
 アルセナ軍は二回ほど樹海を越えてこようとしたが、その度にシーラの魔法で阻止することに成功した。しばしばアルセナ軍は森を燃やそうとしたけれど、あらかじめ火に対する魔法を駆使していたせいで、思った成果を王国軍はあげられなかった。これで諦めてくれればと、僕はそう思っていた。はっきり言って、その頃には血を見るのにうんざりしていたし、元来協調性のない魔術師同士との連携にほころびが見えはじめていたからだ。
 三回目にアルセナ軍が侵攻してきたとき、またかと思った。彼らはこちらが提示した条件を呑むことはなく、今回もまたがむしゃらに進んできた。いい加減諦めてくれればと、苦々しい思いだった。
 けれど三回目の正直というべきか、今回の王国軍の作戦は随分と奇抜だった。
「大変です、先生!」
 そのとき僕とシーラは作戦会議をしていたのだと思う。ロッダという見習い魔女が息せき切って部屋に飛び込んできた。
「どうしたの?」
 シーラは特にその少女に目をかけていたから、幾分柔らかい口調で答えた。それに、好むと好まざるとに関わらず皆の上に立っている人間は、取り乱したところを見せてはならないというのがシーラの持論だった。けれどロッダの報告を聞いたとき、シーラの顔色もさすがに変わった。もちろん、僕のも。
「アルセナ軍が、樹海の樹を切るっていう力技に出たんです! 片っ端から樹が切られていってしまってます」
「樹を切るだって!」僕は叫んだ。正直言って、僕もシーラも、まさかアルセナ軍がそんな単純で、かつ手間のかかることをするとは思っていなかった。一番単純な方法なだけに、人手さえあれば成功するのは確実だった。「正気か!」
「本当にしつこいわね」
 シーラは心底嫌そうな声をだした。樹海で光や音を遮断したり、幻術を見せるための魔方陣は直接木々に描かれている。見通しがよくなるだけでなく、魔術の発動に必要な魔法陣まで倒されてしまっては、成す術がない。
「樹海に展開している部隊をケミー砦まで下げて」苛立った様子を押し隠し、シーラは冷静に指示を出す。ロッダは急ぎ伝令に走った。
 その時僕は動転していて、どんなことを彼女と話したのか覚えていない。シーラがケミー砦へと赴いた後は、僕は部屋で頭を悩ませていたはずだ。ケミー砦では雪を利用した魔術を展開するが、人海戦術と力技で押し切られたら勝ち目はないのだ。難しい、と僕は考えていたに違いない。けれどまだ僕は臆病なりに戦おうとしていたし、砦での攻防戦も工夫をすればいい勝負ができるはずだった。僕らには魔術という力があるのだから。
 そう、まだその時点では僕は戦おうとしていた。やがて味方だったはずの魔術師たちが、自分たちの研究を実戦で使えるか試したいと、そう言ってアルセナに寝返るまでは。
 僕もシーラも、愕然とした。足元から何かが崩れていくようだと思った。
 裏切ったのは極少数とはいえ、ただでさえ協調性に乏しい連携は一層危うくなったし、味方の心情にも大打撃を加えられた。魔術に精彩を欠くようになり、また兵糧を気にしながらの戦いは、僕らに暗澹たる思いを抱かせた。
 そんな時、まるで僕らの気持ちなど判りきっているとでもいうように、アルセナ軍から停戦をもちかけられた。シーラはそれに反対した。
「停戦など到底のめないわ。我々が有利な情勢ならまだしも、現状で停戦条約を結べば不利になるのは明白じゃない」
「だがシーラ、時間をかければ彼らが我々を全滅させられるのは確実なのに、停戦を申し入れてきたのは好機だ」僕は停戦すべきだと主張した。もう戦えるとは思えなかったし、勝てる戦でわざわざ停戦を申し入れてきたのは、アルセナが魔術というものに底知れぬ恐怖を抱いている証拠だったからだ。「とにかく停戦して、様子を見よう。僕らから言い出すのとは訳が違うんだ」
「そんなもの、被害を押さえたいからに決まっている。分かるでしょう、アリオーソ。彼らは恐れてる。我らがウェローを、魔術をね。それに停戦して武力ではなく政治手腕をもって支配しようとしてるのが分からないわけではないでしょう」
「頭を冷やすんだ、シーラ」
 僕はどうにか彼女を思いとどまらせようと思った。シーラは彼女自身の激しさゆえに、道を見失っているように見えた。それとも僕が、もう少しうまく言えていたらよかったんだろうか。
「私は冷静よ」
「シーラ!」
 彼女は冷ややかに言い捨てると、部屋から出ていってしまった。おそらく戦況の確認をしにいったのだろう。僕はゆっくりと、隣で沈黙を保ったままのウェローに向き合った。
「ウェロー、どうするつもりですか」
 彼が政治的な駆け引きにたけていると、僕自身思ったことはなかった。シーラは概ね正しい。研究に明け暮れてきた我々では、奸智を呼吸と同義としている王宮に対抗できようはずもない。しかしだからといって、このまま戦っても光明は見えない。戦が終わる頃には更に不利な敗戦協定を強いられ、容赦ない支配下におかれることになる。だが今なら、多少の代償と引き換えに自治を得ることができる。シーラも頭では分かっているはずだ。しかし彼女は誰よりも、この場所を失いたくはないのだろう。そして彼女の中で吹き荒れる吹雪は、彼女自身にも手がつけられないのだろう。
「偉大なるウェロー、あなたは戦いますか」
 僕は問うた。そしてこの時、ひとつの賭けをした。もしここで彼が戦うと、たった一言でもそう言ったのなら、何をおいても彼に従おうと。彼と、シーラと共に戦おうと。けれどもし、彼が戦い以外の答えを発したら、その時は。
 ウェローは何も言わなかった。
 髪の間からわずかにのぞいた瞳が、僕にはとても悲しんでいるように見えた。滅多に感情を露わにすることのない瞳が、隠し切れない悲哀を湛えていた。僕は恐怖に襲われた。そして気付いたら彼の足元に伏し、一心に許しを乞うていた。
「ごめんなさい、ウェロー。ごめんなさい」
 僕はまるでそれ以外の言葉を失ってしまったかのように、それだけをひたすら繰り返した。僕は、僕らは取り返しのつかない過ちを犯してしまったんだと思った。謝る以外になにができただろう。跪いて許しを乞う以外に、一体なにができただろう。僕らはウェローから与えられたあたたかなものの代わりに、返しきれないほどの恩の代わりに、彼に悲しみをもたらすものしか返せなかったのだ。
 きっとウェローにも分からなかったのかもしれない。なにが最善だったのかは。最初から併合を受け入れるべきだったのか。それともこうやって戦い続けることが一番なのか。ウェローにも分からなかったから、彼は何も言わなかった。
 どうしてここにシーラがいないんだろうと僕は思った。僕は怖くなってしまったんだと、そうシーラに言えたらよかった。なにが怖かったのか、なにを思っていたのか、もっときちんと伝えたらよかった。
 僕らはウェローから授かった贈り物を、戦争の道具にはさせたくないと思った。それにもう二度と、誰かに支配されて生きるのはごめんだった。だから戦おうと思った。そのためには魔術を使うことも仕方ないと思った。自分と、自分の大事なものを守るためだからと。そのことを、おかしいとは思わなかった。
 けれど僕は樹海が血に染まる度に、ケミー山脈の白雪が死体に覆いかぶさる光景を見る度に、苦悶の声が耳の奥でよみがえる度に、僕は分からなくなってしまったんだ。
 僕が、僕らがウェローから贈られたものは、こんなに冷たく、穢れたものだったろうか。もっと優しく、暖かく、僕らを深く満たしてくれたものではなかったか。ウェローが僕らにそうしてくれたように、誰かの息を吹き返させたり、痛みと冷たさにこわばった心を解きほぐすためのものでなかったか。それを僕らは目指していたのではなかったか。他でもない僕らが、その恩恵に誰よりも与っていた僕らが、魔術を穢してしまったんじゃないだろうか。
 ウェローはやっぱり何も言わなかった。
 彼から教えてもらった精霊言語も、構築式も、世界のありとあらゆる謎も、全て僕らには美しいものだったのに。それを穢すということは、他でもないウェローを貶めることだったのに。僕はなんと愚かだったのだろう。
 僕にはもう何も分からなくなっていた。ただひたすらウェローに申し訳なくて、腹立たしくて、どうしてここにシーラがいないのかと考えていた。そのときの僕には、どんな構築式も描けなかったに違いない。こんなに自分の心が歪み、荒れ、なに一つ正常な判断ができないような状況では。
 もし叶うなら、彼と出会った頃に戻りたい。あるいはあの王国からの使者がやってきた時でもいい。そうしたら僕は、何があろうとも決して、ウェローを裏切ったりしないのに。

   ◆

 ここで一旦手記が途切れている。まるでこれを読んだ誰かが溢れ出る涙を止められなかったとでもいうように、文字が滲んでいた。

   ◆

 あの日のことを書くのは、僕にとって身を切り裂かれるような痛みを伴う。けれど書かなければならない。これを書かないでは、僕の遺書は終われない。
 その日、シーラは霧の魔術の補強のために海岸線に赴いていて、僕はウェローと二人きりだった。僕は確か、午後は負傷者の手当てに追われていたはずだ。終わったのは、日がすっかり沈もうとしている頃だった。どこにもウェローが見当たらず、裏の森にいるのだろうと考えて、彼のために紅茶を淹れて向かった。案の定、彼はそこにいた。立ったまま、緋色に染まっていく空を見つめていた。
「こんなところにいたんですか」僕はそう言って声をかけた。「紅茶を淹れてきたんですよ、今日はなんだか冷えますから」
 僕が差し出した紅茶に一瞥をくれたあと、ウェローは黄昏の空に視線を戻した。カップを持つ僕の手が、無様に震えた。そしてやがて、彼はぽつりと言った。
「どうすればいいか、私には見えていた」
 一体なんのことを言ってるのか分からなかったが、彼はいつも唐突に感覚で語りだすので、僕はそのときも辛抱強く待った。
「けれど今は、もう何も見えない」語りながらも、彼は空から目を離さなかった。そこに何かを見ようとしているかのようだった。「たった一つのこと以外は」
 そしてそう言って、彼は僕を見た。
 僕はそのとき悟った。
 彼は全てを知っている。全てを見透かしている。僕が何故ここにいるのか、これから何をするつもりなのか、全てを知った上で僕の前にいるのだ。
「魔術は既にこの手を離れた」
 彼はそう言った。じっと僕を見つめながら。
「私の役目は終わった」
「役目?」
 僕はそのとき、僕がなんのためにそこにいるのかも忘れ、もっと彼の話を聞きたいと思っていた。そんな風に語ってくれるのは、それまでにも数えるほどしかなかったから。僕は歩み寄り、まるで告白を待つ乙女のように、一言も聞き漏らすまいとした。
「いやきっと、君とシーラに魔術を授けたとき既に、私の役目は終わっていたのかもしれない」そして何を言われるのだろうと身構えていた僕の耳に、思いがけない言葉が飛び込んできた。「けれど君たちと共にいるのは、とても心地よかった」
 その言葉と共に目を伏せ、ウェローは僕の手から紅茶を受けとった。止める間もなく、彼は一息に飲み干した。きっと程よくぬるくなっていたのだろう。ウェローは熱さに戸惑うこともなく、空になったコップを僕の手に戻した。
 そうして、血を吐いた。
 白い雪の上に、真っ赤な花が咲いた。僕はここ数ヶ月で見慣れてしまった色彩に見入られ、ふと我にかえったときにはウェローは仰向けに倒れていた。
「ウェロー?」
 幼子が母に対してそうするように、僕は彼に呼び掛けた。答えはなかった。できるだけ苦しみを与えない類の毒を選んだとはいえ、彼はあまり苦しまなかったように思えた。それは僕の希望だったろうか。彼はあっさり命を手放してしまった。だらりと無造作に放られた手足は雪の褥に受け止められ、まるで眠っているように見えたが、彼の体からは初めて出会ったときから漂っていた神聖さともいうべき魔力がすっかり抜け落ちていた。
「ウェロー」
 僕はもう一度彼の名を読んでみた。
 確かに僕自身が毒を盛って殺したというのに、僕はまだどこかふわふわとした現実を漂っていた。きっと自らの手で刺し殺すなりしていれば、また違ったのだろう。それに彼はきっと抵抗しなかっただろう。死期を悟っていたに違いないのだから。数多の未来を見通してきたのと同じように。だが僕が剣を手にとらなかったのは、ひとえに僕の弱さゆえだった。卑怯さゆえだった。
 僕はすぐさま行動しなければならなかった。用意しておいた手紙を、大至急アルセナ王国軍の指令官に届けねばならなかった。ウェローの遺体は隠し、彼が停戦に同意したとして砦の門を開かねばならない。それで犠牲者は最低限に押さえられるだろう。
 けれど僕はゆっくりと彼に歩み寄り、口の端にこびりついた血を拭ってやって、胸の上で手を組ませた。僕はこのことに関しては急ぎたくなかった。決して急ぎたくはなかった。
 ウェローは尊敬すべき師であり、愛すべき友であり、僕の劣等感をひどく刺激する存在だった。大きな存在だった。複雑で、高尚かつ低俗な感情を僕に抱かせる存在を、僕は殺したのだった。憎さからというよりは、彼に対しての敬愛ゆえに。だから僕は、彼は丁重に葬られるべきだと思ったし、それを行うのは僕以外の誰かではあってはならなかった。
 ウェロー、と僕はまた口の中で呟いた。これで良かったんですよねと、そう問いかけようとしてやめた。シーラはきっと、魔術の補強を終えて夜営の準備をしているに違いない。そうして明日の夕方には帰ってくるはずだ。その前には停戦の報は街を駆け巡っているだろう。
 シーラは僕を許さないだろう。
 そして僕も、許されたいなどとは露ほども思っていなかった。
 僕は遺体の周りに魔法陣を描きはじめた。それはシーラと共に僕が考案した魔術だった。白炎の魔法と呼んでいる。この魔法は死した肉体を白い灰にするためのものだ。ここノースランドの土は墓穴を掘るには硬く、火葬にするには貴重な薪を使わねばならないことから編み出された。ただ死した者だけを灰に帰す魔法。人も獣も魔物も、その身に死を迎え入れさえすれば、ひとつの例外もなく灰となる。
 ウェローも、あっというまに白い炎に飲み込まれた。僕はずっと、彼が白い灰になってしまうまで、全てを見守り続けた。

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